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周辺に逃れた越人
近藤元教授によると、中国の越人の祖先は長江流域の民で、頭に羽根飾りをもち漁撈により魚を食べ、米を栽培して鳥や蛇や太陽を崇めていた種族であった。しかし彼らはその地を追われ、周辺地域へと追いやられた。その文化の痕跡が周辺地域に色濃く残るという。たとえば、雲南省の石寨山遺跡で出土した貯貝器の横面に描かれている文様は、その頭に羽の冠をかぶる人物が何人かで擢を握り、船を漕いでいるところで、そばには魚が泳いでいる。こうした羽人の絵は長江下流域の浙江省にも認められるという。以上のことより石寨山遺跡の羽人は、越すなわち江南から逃れた人だと云う。
この羽人はドンソン文化を代表するゴックルー銅鼓(前5世紀ー紀元1世紀)にも見ることができる。
北ベトナムのドンソン洞窟で出土した銅鼓。北ベトナムは南越とも呼ぶ、語呂合わせで銅鼓の羽人は南にのがれた越人と云われれば、反論できないのが残念ではある。
論衡の撰者は王充(27年ー97年)で会稽郡上虞県生まれである。その儒増篇第二六には「周時天下太平越裳献白雉倭人貢鬯草食白雉服鬯草不能除凶」とある。周の時とは縄文晩期から弥生時代前期に相当する。越裳とは『後漢書・南蛮西夷伝』に交阯(ベトナム)の南に越裳國があったとする。越裳とは会稽を中心に広く南方の地域に分布していた越族の一派との説が存在する。越裳と倭人が並んで記述されている。つまり倭人と越の人々は近しい関係にあったことが伺われる。
そこで銅鼓に話を戻す。描かれているゴンドラ風の舟に乗るのは、全員が羽人である。つまり乗船する全員がシャーマンと云うことであろうか。これには何か違和感が残る。
違和感は残るが、朝鮮半島にも羽人を見ることができる。再び近藤元教授の論説に戻る。
(出典・銅剣・銅鐸と弥生文化 近藤喬一著)
忠清南道大田炭坊洞遺跡出土の農耕文青銅器(前3世紀―前2世紀)に羽人が鋤で耕している図柄が描かれているという。そして片面には鳥が描かれている。これについてシャーマンが農耕儀礼をしていると解す韓国の研究者が存在し、近藤元教授もそのように説く。朝鮮半島の羽人もシャーマンだと云うのである。それは越人なのか扶余族なのか? 個人的にはシャーマンと云うより、羽を頭に着けるのは越人の習俗であると考えたい。
倭人は鳥と太陽を崇拝する民であった?
弥生遺跡から出土する所謂シャーマンと呼ばれる人物像が描かれる遺物を既に数点紹介してきたが、以下に伊都国歴史博物館に展示されている人物線刻板を紹介しておく。
(出典・伊都国歴史博物館常設展図録)
これは上鑵子(じょうかんす)遺跡から出土したものである。伊都国歴史博物館のキャップションによれば、司祭者と説明しており、シャーマンとの記述はないが、ここでも実質的に羽人はシャーマンとしている。
倭人は鳥と太陽を崇拝する民であったと思われる? 船を漕ぐ羽人の絵は鳥取県米子市の稲吉角田遺跡出土の弥生土器にも認められた。頭に細長く伸びた羽飾りの人物と船や櫂など、その上に太陽と思われる丸いものまで描かれている。
土器の時期は弥生時代中期で、中国の戦国時代の動乱期と重なる。こうした絵は中国の江南地域を発する文化と共通性がある。つまり、羽人は雲南省から浙江省にかけての中国南部、北ベトナム更には日本列島の日本海沿岸出土の遺物(先に上鑵子遺跡の事例も紹介した)に見ることができ、存在していた証であろう。そうとすれば羽飾りをつけた人々(羽人)が対馬海流を通じて、舟により往来していた可能性が考えられる。これらの図像に描かれた鳥は水先案内のような位置づけで、羽は烏の象徴ともいえる。共に描かれる太陽は、それを神として崇めたことを示している。いわゆる太陽神信仰である。
浙江省余姚県河姆渡(よようけんかもと)遺跡から太陽を支える二羽の鳥をモチーフとした骨製の板が出土した。
(浙江省博物館HP)
重ねての記述になるが、近藤元教授はこれをもって、農耕儀礼として太陽神崇拝の儀礼が存在したであろうとし、忠清南道大田炭坊洞遺跡出土の農耕文青銅器の図柄は、シャーマンが鳥の羽を頭につけて耕起・播種・収穫の儀礼をおこなったり、太陽を象徴した鈴をもって踊ったとの説明である。
羽人はエツ人であった?
弥生時代の遺跡である松江市・西川津遺跡出土の人面土器、頭部の頂上に鶏の鶏冠のような突起が存在する。キャップションでは断言していないがシャーマンの可能性を指摘している。以上見てきたように日本では羽人はシャーマンとする見解が多数を占めている。そのシャーマンは古代越人が関与していることを伺わせている。先にも個人的見解を記したが、羽人がシャーマンとすれば、古代の倭人は全てシャーマンであったかとの疑問が湧く。
魏志倭人伝には、『兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鉄鏃或骨鏃』とあり、矛や楯・弓は描写されているが、銅鐸は一言も登場しない。再掲するが魏志倭人伝には、帯方郡使が伊都国に常にとどまって倭国の見聞をしているが、農耕儀礼、銅鐸については一行も触れられていない。魏志東夷伝には朝鮮半島で鐸などを用いた祀りの仕方が記述されているのに、倭人伝にはない。つまり伊都国や邪馬台国の政治勢力は銅鐸とは無縁で、銅鐸を祀る社会は邪馬台国圏外の僻遠の地で行われていたのであろうかとの疑問が湧く。おそらくその祭りは古代出雲以東のことではなかったのか?
これらの事より武器と銅鐸をもたらした民族は、異なるものと思われる。
コシ(越)と出雲
福井県の織田文化歴史館HPを見ていると、以下の一文が掲載されていた。
越と出雲との関係のなかでクローズアップされるのが、記紀に登場するヤマタノオロナやヤチホコノカミなどの神話である。『古事記』では「高志の八俣の遠呂智」とあり、オロチの前にコシの名がつく。加えて出雲勢力が越の八口を平らげたという説話もある。コシについては諸説あるが、越を出雲内に求めるのではなく、日本海沿岸の東西を2分する政治勢力のコシとイズモの抗争を示したものと考えている。・・・これについては、やや異なる見解を持つが、本旨ではないので前に進むことにする。
また、『古事記』のなかに、出雲の八千矛神(大国主神の異名)が高志国の沼河比売に求婚しようとして高志へと幸行した内容の話がある。前者は抗争で、後者は婚姻との違いはあるが、日本海沿岸の西のイズモ世界、東のコシ世界という認識があったことを教えてくれる。
近年の考古学的な成果により、コシの独自性と出雲との密接な関係性が指摘できる。なかでも、弥生時代中期前葉には玉つくりや井戸などの技術が伝わり、とくに弥生時代後期にはイズモとの政治的なつながりが強く、四隅突出形墳丘墓を介した擬制的な関係も想定できる。・・・との記述である。
考古学的遺物では、壱岐・北九州・出雲・丹後や越に共通するものがある。それはヤシ笛や土笛で、これらの箇所以外ではほとんど出土していない。
以上をまとめると、長江下流域を拠点とした稲作・漁撈の民は羽飾りをつけ、鳥や太陽を崇めていた。それが古代の気候変動により南下した畑作牧畜民にその場所を追われて、中国の南部や東南アジア北部、そして日本列島に流れ着いた。それが越人で、温帯ジャポニカ米の新しい稲作文化をたずさえていた人々であった。日本海沿岸地域の越も百越のひとつとみなせば、古くに越の概念があり、のちにコシと読み替えたということになる。
ここでコシと云うかエツに興味がある。三国志の三国とは、魏・呉・蜀である。何れも漢字表記で一文字国名である。魏志東夷伝の国々は二字・三字国名で、例えば烏丸・鮮卑・扶余・高句麗・東沃祖などである。つまり蛮夷の国々には二字・三字国名で呼んだ。魏志倭人伝にも奴国・鬼國(何れも卑字を用いているが)を除けば2-3字国名である。其の中でなぜ越(古志、高志)が一字国名であろうか? やはり、会稽東冶の東と認識されていたものと思われる。
<了>
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