金子みすゞさんの詩で一躍有名になったフレーズ「みんな違って、みんないい」。国語の教科書にも載り、歌謡曲にも同じような意味合いの文言がたくさん歌われるようになってきました。とても良い言葉だと思います。基本的には大賛成のこの言葉。でも、ときどきこの言葉を隠れ蓑に「?」と思える考え方を平気でのたまう大人が増えてきていることを実感するのです。個性的という言葉をすでに逸脱して、それはすでに『反社会的行動』では?と思えるような大人。多くなりましたね。挙げていけばきりがないくらいに実例は豊富ですが、最近の大ヒット(こんな言い方をするのもなんですが)に、このような話を聞きました。『仕事なんて適当にやっておけばいい。きちんとやろうなんて人に強要するな!』これを言った人はどんな仕事ぶりなのか。同僚の人から聞いただけなので一方的な意見では正しくないのでしょうが、普段もほとんど手抜きで仕事をしてばかり。中間管理職クラスの人があきれているらしいのですが、どうしてその人は仕事を続けているのでしょう?給料をもらって生活するためだけ?家族を養っているわけでもないようです。自分の小遣いのためだけなら、やめてもっと生き甲斐のある仕事を探せば?と思うのですが。明らかにその人が所属する職場の仕事率は低下しているでしょうし、周りで一生懸命にやっている正直な人たちが尻ぬぐいの仕事が増えて困っていると聞きます。正社員として働く以上、やはり各自の仕事には責任を持って取り組むべきだと思うのですが。例えばこんな感じの人が私たちのような学校現場にいたら、その被害を被るのは教えられている子どもたち自身に他なりません。そんなことを保護者の方が知ったら、そんな人を担任にしないでくれと、教育委員会に直訴するでしょう。一般の企業でも同じだと思います。顧客である側が自分の担当者がいい加減な人間だと知れば、若しくは誠意が感じられなければ、その会社との取引はなしにしたいと思うでしょう。それでもその人が仕事を続けていられるのは「表面上はうまく取り繕っている」からでしょうか?見る人が見れば分かると思うのですが。それともほかに何らかの魅力がある人物なのでしょうか?
私は自分がなりたかった教師という仕事に就くことができ、かれこれ18年ばかり過ぎました。途中で、全く知らなかった「通級指導教室」という世界に配属になったとき、何も知らないでは子どもたちに申し訳が立たないと思い、おそらく人生で一番しっかりと勉強しました。まだまだ知らないことも多く、未熟ではありますが、人様に「通級とはなんぞや?」と問われたら、答えてあげるが世の情け…などとふざけている場合ではありませんが、ある程度までは説明することができるつもりです。それは自分の仕事、持ち場に責任を持っているからです。人任せにしない。自分で考えて動く。知らないことは自分で調べる。人に聞く。分からないままにしない。それをモットーに仕事をしてきました。そしてそれは私が出会った子どもたちにも教えていることです。もちろん、分からないことを尋ねられたら答えてあげるのが教師の役目ですから、いつでも聞きにいらっしゃいと言ってあるわけです。個性を伸ばす時代と言われて久しいですが、わがままと個性は明らかに違います。周りと協調することが集団生活の鉄則です。数年前に自治会の副会長を務めていましたが、周りと関わり合いを持ちたくないから自治会には参加しないという人が増えました。かつて保育園の役員をしていたうちの妻が「新車の3ナンバーワンボックス車を乗り回し、ヴィトンやシャネルで着飾っているわりに、100円の卒園記念品料を徴収されるのを『うちは貧乏だから』と拒否して、父母の会に参加しない人がいる」とぼやいていました。障害児を育てる親の集まり(手をつなぐ育成会)にも「役員をやりたくないから」という理由で参加しない人が多くなってきています。大人たちのわがままに振り回されるのは全て子ども。そんな大人の背中を見ながら育つ子どもは、果たして将来この国の共同体の一員として世の中の役に立っていくことができるのでしょうか?自分勝手な子供を作らないこと。これも教育の役目です。その上で、自分の特徴を生かせる子どもを育てていきたい。それが本来の「みんな違って、みんないい」なのではないでしょうか?
私は自分がなりたかった教師という仕事に就くことができ、かれこれ18年ばかり過ぎました。途中で、全く知らなかった「通級指導教室」という世界に配属になったとき、何も知らないでは子どもたちに申し訳が立たないと思い、おそらく人生で一番しっかりと勉強しました。まだまだ知らないことも多く、未熟ではありますが、人様に「通級とはなんぞや?」と問われたら、答えてあげるが世の情け…などとふざけている場合ではありませんが、ある程度までは説明することができるつもりです。それは自分の仕事、持ち場に責任を持っているからです。人任せにしない。自分で考えて動く。知らないことは自分で調べる。人に聞く。分からないままにしない。それをモットーに仕事をしてきました。そしてそれは私が出会った子どもたちにも教えていることです。もちろん、分からないことを尋ねられたら答えてあげるのが教師の役目ですから、いつでも聞きにいらっしゃいと言ってあるわけです。個性を伸ばす時代と言われて久しいですが、わがままと個性は明らかに違います。周りと協調することが集団生活の鉄則です。数年前に自治会の副会長を務めていましたが、周りと関わり合いを持ちたくないから自治会には参加しないという人が増えました。かつて保育園の役員をしていたうちの妻が「新車の3ナンバーワンボックス車を乗り回し、ヴィトンやシャネルで着飾っているわりに、100円の卒園記念品料を徴収されるのを『うちは貧乏だから』と拒否して、父母の会に参加しない人がいる」とぼやいていました。障害児を育てる親の集まり(手をつなぐ育成会)にも「役員をやりたくないから」という理由で参加しない人が多くなってきています。大人たちのわがままに振り回されるのは全て子ども。そんな大人の背中を見ながら育つ子どもは、果たして将来この国の共同体の一員として世の中の役に立っていくことができるのでしょうか?自分勝手な子供を作らないこと。これも教育の役目です。その上で、自分の特徴を生かせる子どもを育てていきたい。それが本来の「みんな違って、みんないい」なのではないでしょうか?