♪山の中でお昼に食べるおにぎりは最高!
【Live Information】
最近、「山歩き」をしています。
いまは、「トレッキング」とも言うんですね。
前から山を歩いてみたかったんです。
とにかく、歩いてみたいから歩く。
自分が中年になって体型が変わってきたのが恥ずかしいなあと思ってはいますが、健康のためとか、知人にすすめられたからとかではなく、あくまで自分がやりたいからやる、というスタンスです。
ぼくが住んでいる岡山市には、操山(みさおやま)という、山があります。
岡山市東部約3㎞に位置する操山は、標高130mから170mの山々が東西方向約4㎞に連なる丘陵地です。
岡山市内から東へ向かう県道西大寺線沿いには、操山への登り口が点在していて、わが家から北へ歩いて3分ほどのところにも登り口があります。
じつはぼくは、山歩きには格好の場所に住んでいたんです(^^)
ずっと山歩きに興味があったとはいえ、忙しいことを理由になんの行動も起こしていませんでしたが、やっぱりやりたいことは即行動に移してみなければ。
このままでは「行ってみたいと思っているんですよ」って言うだけで終わってしまいますからね。
山歩きを楽しんでいる友人が2、3いるので、装備や注意点を尋ね、ネットで山歩きのイロハを検索し、まずは短時間・短距離での行動であること、天候の急変はあまり心配ないことなどから、比較的軽装での山歩きになりました。
1回歩いてみると、いろんなものが必要であることがわかります。
帽子、軍手、虫よけスプレー、暑くても長袖長ズボンなどなど・・・
山歩きに踏み出せなかった理由のひとつに、急な坂道がずっと続くのでは、という思い込みがありました。
たしかに登り口からは結構な急斜面が続きましたが、15分も進めばなだらかな山道に到達します。そこから先は、ところどころ傾斜の急なところはありますが、自分のペースでゆっくり歩けます。
ただ、その最初の15分がキツく、息ははずむし、汗はダクダク。この急斜面はどこまで続くんだろう、頂上までこの調子ならもたないかも、と心配になりながらも、なんとか平坦な山道に到達すると、まずそこで小さな達成感を味わえました。(^^;)
操山には古墳が点在しています。表示を見ると、紀元4~7世紀にかけて造られたらしいですが、こんな人里離れたところに、大きな石をどうやって運んだのか、とか想像をかきたてられます。
以前、「操山のふもとで『さんずい』のついた地名(湊、池の内、海吉、福泊など)は昔は海だった」という話を聞いたことがあります。もしかすると、操山の中腹自体が当時の生活圏だったのかもしれません。
神社やお寺の古刹もあちこちにひっそり立っています。
吸い込まれるような青空、延々広がる竹林、木漏れ日が美しい杉林、木立が急に途切れた先に広がる柿畑、その柿畑にポツンと存在する巨大な岩、山中の池、遠景の眺望。
静寂もまた心地よく、聴こえるのは自分の足音だけ。
ごくたまにすれ違う人と交わす挨拶が自然なのも気持ちが良いものです。
なんといっても、遠くまで広く見渡せる山の上で食べるおにぎりのおいしいこと!ごちそうなんてなくても満ち足りた気分です。
山でふと思ったことがあります。
不意に蜘蛛の巣が顔にかかった時、思わず巣を払いのけてしまいました。
正直、あまり気持ちよくは感じなかったものですから。
でも、なぜかその時に、「蜘蛛の巣も山の一部」ということが頭に浮かんだんです。
蜘蛛の巣だけではなく、蛇や、虫や、得体のしれない植物や、湿った土や落ち葉。たしかにこれらは気持ちの良くないものですが、それは「人間にとっては」ということ。山として見れば、それらは当たり前のものなんです。「気持ちわるい」とか「きたない」とか「イヤだ」と思うのは、われわれ人間が「勝手にそう受け取っているだけ」なんです。
人間関係も同じじゃないかな。
イヤな人、仲がわるい人、波長が合わない人。この人たちを「イヤだ」と思うのは、あくまで自分の受け取りようなんですね。みんながそう思っているわけではない。あくまで「自分とその人が合わない」だけで、それを理由にその人を否定したりジャッジしたりはできない、って思えたんです。
きれいなだけ、つまり自分だけにとって都合がいいのが山じゃない。それは人間の世界でも同じで、自分と波長が合わない人がいるのが当たり前なんですね。だから、そのことを思い煩ってもなんの解決にもならない。むしろそういう人の存在も認め、許してこそ、楽に生きていけるんじゃないかな。
そんなことを考えながら、山を下りましたが、足取りは不思議と軽かったです。(^^)
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最近、「山歩き」をしています。
いまは、「トレッキング」とも言うんですね。
前から山を歩いてみたかったんです。
とにかく、歩いてみたいから歩く。
自分が中年になって体型が変わってきたのが恥ずかしいなあと思ってはいますが、健康のためとか、知人にすすめられたからとかではなく、あくまで自分がやりたいからやる、というスタンスです。
ぼくが住んでいる岡山市には、操山(みさおやま)という、山があります。
岡山市東部約3㎞に位置する操山は、標高130mから170mの山々が東西方向約4㎞に連なる丘陵地です。
岡山市内から東へ向かう県道西大寺線沿いには、操山への登り口が点在していて、わが家から北へ歩いて3分ほどのところにも登り口があります。
じつはぼくは、山歩きには格好の場所に住んでいたんです(^^)
ずっと山歩きに興味があったとはいえ、忙しいことを理由になんの行動も起こしていませんでしたが、やっぱりやりたいことは即行動に移してみなければ。
このままでは「行ってみたいと思っているんですよ」って言うだけで終わってしまいますからね。
山歩きを楽しんでいる友人が2、3いるので、装備や注意点を尋ね、ネットで山歩きのイロハを検索し、まずは短時間・短距離での行動であること、天候の急変はあまり心配ないことなどから、比較的軽装での山歩きになりました。
1回歩いてみると、いろんなものが必要であることがわかります。
帽子、軍手、虫よけスプレー、暑くても長袖長ズボンなどなど・・・
山歩きに踏み出せなかった理由のひとつに、急な坂道がずっと続くのでは、という思い込みがありました。
たしかに登り口からは結構な急斜面が続きましたが、15分も進めばなだらかな山道に到達します。そこから先は、ところどころ傾斜の急なところはありますが、自分のペースでゆっくり歩けます。
ただ、その最初の15分がキツく、息ははずむし、汗はダクダク。この急斜面はどこまで続くんだろう、頂上までこの調子ならもたないかも、と心配になりながらも、なんとか平坦な山道に到達すると、まずそこで小さな達成感を味わえました。(^^;)
操山には古墳が点在しています。表示を見ると、紀元4~7世紀にかけて造られたらしいですが、こんな人里離れたところに、大きな石をどうやって運んだのか、とか想像をかきたてられます。
以前、「操山のふもとで『さんずい』のついた地名(湊、池の内、海吉、福泊など)は昔は海だった」という話を聞いたことがあります。もしかすると、操山の中腹自体が当時の生活圏だったのかもしれません。
神社やお寺の古刹もあちこちにひっそり立っています。
吸い込まれるような青空、延々広がる竹林、木漏れ日が美しい杉林、木立が急に途切れた先に広がる柿畑、その柿畑にポツンと存在する巨大な岩、山中の池、遠景の眺望。
静寂もまた心地よく、聴こえるのは自分の足音だけ。
ごくたまにすれ違う人と交わす挨拶が自然なのも気持ちが良いものです。
なんといっても、遠くまで広く見渡せる山の上で食べるおにぎりのおいしいこと!ごちそうなんてなくても満ち足りた気分です。
山でふと思ったことがあります。
不意に蜘蛛の巣が顔にかかった時、思わず巣を払いのけてしまいました。
正直、あまり気持ちよくは感じなかったものですから。
でも、なぜかその時に、「蜘蛛の巣も山の一部」ということが頭に浮かんだんです。
蜘蛛の巣だけではなく、蛇や、虫や、得体のしれない植物や、湿った土や落ち葉。たしかにこれらは気持ちの良くないものですが、それは「人間にとっては」ということ。山として見れば、それらは当たり前のものなんです。「気持ちわるい」とか「きたない」とか「イヤだ」と思うのは、われわれ人間が「勝手にそう受け取っているだけ」なんです。
人間関係も同じじゃないかな。
イヤな人、仲がわるい人、波長が合わない人。この人たちを「イヤだ」と思うのは、あくまで自分の受け取りようなんですね。みんながそう思っているわけではない。あくまで「自分とその人が合わない」だけで、それを理由にその人を否定したりジャッジしたりはできない、って思えたんです。
きれいなだけ、つまり自分だけにとって都合がいいのが山じゃない。それは人間の世界でも同じで、自分と波長が合わない人がいるのが当たり前なんですね。だから、そのことを思い煩ってもなんの解決にもならない。むしろそういう人の存在も認め、許してこそ、楽に生きていけるんじゃないかな。
そんなことを考えながら、山を下りましたが、足取りは不思議と軽かったです。(^^)
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