令和4年10月22日(土)
その3~伊予国(愛媛県) 菩提の道場
伊予 菩提の道場
厳しい行路を来た巡礼者を穏やかな海
伊予 菩提の道場
厳しい行路を来た巡礼者を穏やかな海
が迎えるという。
大師とゆく悟りの道はまだまだ続く。
大師とゆく悟りの道はまだまだ続く。
第四十番霊場「観自在寺」から
第65霊場「三角寺」まで。
「同行二人」ですすむのみ。
「同行二人」ですすむのみ。
第40番 南宇和郡: 観自在寺
本寺は、第一番霊山寺より一番遠く
「四国霊場の裏関所」
とも呼ばれる名刹。
大同二年(807)、平城天皇の勅願所として、 弘法大師が開創。
本尊の薬師如来、
大同二年(807)、平城天皇の勅願所として、 弘法大師が開創。
本尊の薬師如来、
脇仏の阿弥陀如来、
十一面観世音菩薩の三躰は、
大師が一本の霊木を彫造し、
安置した。
病弱だった平城天皇は、
在位3年で皇位を嵯峨天皇に譲り
上皇となる。
しかし、平城天皇の寵愛を受けた
しかし、平城天皇の寵愛を受けた
藤原薬子と兄の仲成が上皇に政権を
取り戻そうと画策するが、
弘仁元年(810)に嵯峨天皇に鎮圧される。
薬子の乱により
薬子の乱により
平城天皇は連座の罪に問われ、
仏門に入る。
仏門に入る。
剃髪した遺髪が
本堂横の五輪塔に納められている。
寛永十五年(1638)には、
寛永十五年(1638)には、
京都・大覚寺空性法親王が
四国巡拝の折に宿泊され、
「薬師院」の号を受ける。
かつて、この地域は比叡山延暦寺の
かつて、この地域は比叡山延暦寺の
門跡寺院青蓮院の荘園であったことから
御荘と呼ばれた。
その後、火災により全てを消失するが、
延宝六年(1678)、
その後、火災により全てを消失するが、
延宝六年(1678)、
宇和島藩主・伊達宗俊氏の祈願所として、
本堂、大師堂が再建される。
昭和三十四年(1959)に
昭和三十四年(1959)に
再び本堂が焼失するが、
信徒の浄財で創建時の姿で再建される。
信徒の浄財で創建時の姿で再建される。
本堂に向かう石畳左手に、
十二支守本尊八体仏が並び、
参拝者は水をかけて願いを成就させる。
本堂には、
新しい三鈷と古い三鈷が置かれている。
新しい三鈷と古い三鈷に両の手で、
「大師と同行二人」
という縁結びを
謝意をもって祈願する。