☆観終えて考えてみるに、クライマックスで、主人公・鷲津が仕掛けた「プチ・バブル崩壊」作戦は、斬新な手であったが、物語自体は至ってシンプルな、経済分野の映像作品や小説にはよく見られる展開だったと思う。
いや、スポーツと同じで、表面上は、同じ様相を見せるのが「勝負物」なのかも知れない。
しかし、最初から最後まで、こちらをグイグイと引っ張ってくれる作品構成因子に満ちた作品であった。
◇
序盤は、これまで(テレビシリーズ)、徹底した合理主義で、企業の何たるかを求めつつ、企業を買い叩き続けていたファンドマネージャー鷲津が、南国で、半引退状態で暮らしているところから始まる。
そこへ、盟友の芝野が、謎のファンドの買収を受けた日本の基幹企業・アカマ自動車を助けてくれと依頼に訪れる。
短いカットインを繰り返し、その謎のファンド、中国政府の意向で動く男・劉の動きがタクティクスに語られる。
そして、南国風の民族的BGMから、切羽詰ったような、不安と勇壮なる戦いの始まりのBGMへと変化しつつ、鷲津の復帰劇が描かれる。
あたかも、ロッキーのカムバックのようで、こちらは胸を躍らされる。
BGMは、その後も、中国風であったり、オペラであったり、中東風であったり、この物語のスケールと展開を裏打ちしてくれる。
◇
感心するのは、映画を作る各構成因子に割かれた、製作のNHKの豊潤な予算である。
くだんの音楽の重厚さもそうだが、
ドキュメントタッチのざらついた暗い色調の映像にあって、贅沢に使われた予算での美術はリアリティを生む。
これまでの邦画は、「本物」を、明るい中で、せっかくだからと、これみよがしに見せていたので、却って安っぽくなってしまった。
「本物」は暗がりの中であっても光彩を放つ。
そのような映像効果は、例えば、実際にはそうなのかも知れないが、映像的には、やや「秘密基地」の如き鷲津の事務所のディスプレイなどを説得力もって見せてくれる。
◇
編集の仕方も独特であり、スピーディーである。
例えば、劉の来歴を調べるために、鷲津の腹心が中国で調査をするのだが、劉の故郷と思われる場所が偽りであったと分かると、腹心は、サッと、帽子を被ろうとする。
その帽子を被ろうとする瞬間に、画面が切り替わるのである。
つまり、そこでの「用済み」を表現している。
とても、無駄がなく、リズム感がある。
作品は、そんな合理的なスタイリッシュさに満ちている。
鷲津の性格が、編集ともシンクロしているのである。
また、クライマックスでは、画面が切り替わり、すぐに、その後のシーンが見たいときには、あえて、画面を1秒ほど暗転させるのである。
1秒の欠落は、映画の中では非常に長い。
その「ため」は、見ているものの欲求を非常に高める。
劇中で三度ほどあったか。
作り手の計算なのだろうが、心憎くも、恐ろしいテクニックである。
◇
鷲津の、自然なクールさは、無個性なようで、近年稀に見る個性的な役柄である。
映画館を出た私は、ちょいと、主演の大森南朋に影響された表情を作っている自分を感じた。
劉役のイケ面・玉山鉄二は、その清潔感が、中国的な臭いを持っていて、いいキャスティングだと思った。
正体を見抜かれたときの怯えの表情が良かった。
その最後は、『太陽にほえろ』の刑事殉職シーンを髣髴とさせた…。
栗山千明は、美人だと思っていたが、顎の骨格の、頬への浮き出具合が気になった。
「顎の骨格の頬への浮き出具合」が、伊藤淳史にクリソツだ^^;
しかし、思えば、そもそも、「顎の骨格の頬への浮き出具合」の元祖は、この作品にも出ている嶋田久作ではないか!
◇
この作品には、派遣切りやサブプライム問題など、タイムリーな時事がうまく盛り込まれていた。
高良健吾演じる派遣工員は、物語の終盤では、赤いアカマGTに乗り、都会を走っている。
私には、この後、この工員が、秋葉原に突っ込む未来が予感された。
(注:ああ、私、高良工員が株価を眺めているシーンを忘れてました!
彼は株で儲けたのですね^^;アチャー)
・・・工員としての高良はリアルだが、このようなタイプは組合運動などはしないと思う。
◇
つくづく、私は、時代の渦中で生きていると思っている。
私は、派遣社員として、車体組立工場で働いていたこともある。
もっとも、私が車体工場で働いていた頃は、派遣法が改悪(労働者にとって)される前で、月に50万円稼ぐことも可能であった。
私は、常に必要とされていた。
だが、その後、他の現場での、派遣社員の苦境を見、戦ったことがある。
このネットの世界を舞台に主張を発信して、である。
結果は勝利。
私は常に勝利する。
そして、すぐに、その勝利に固執しないで去る。
故に、作中の派遣工員のような「ピエロ」になることはない。
鷲津は、物語の終盤で「後はお任せします」と、直ちに退席する。
対して、劉は、アカマ自動車への理想と、中国政府の非情との狭間で、ピエロとなって野垂れ死ぬ。
・・・悲しいかな、ピエロとは、アイデンティティーを喪失したものの右往左往である。
(2009/06/09)
いや、スポーツと同じで、表面上は、同じ様相を見せるのが「勝負物」なのかも知れない。
しかし、最初から最後まで、こちらをグイグイと引っ張ってくれる作品構成因子に満ちた作品であった。
◇
序盤は、これまで(テレビシリーズ)、徹底した合理主義で、企業の何たるかを求めつつ、企業を買い叩き続けていたファンドマネージャー鷲津が、南国で、半引退状態で暮らしているところから始まる。
そこへ、盟友の芝野が、謎のファンドの買収を受けた日本の基幹企業・アカマ自動車を助けてくれと依頼に訪れる。
短いカットインを繰り返し、その謎のファンド、中国政府の意向で動く男・劉の動きがタクティクスに語られる。
そして、南国風の民族的BGMから、切羽詰ったような、不安と勇壮なる戦いの始まりのBGMへと変化しつつ、鷲津の復帰劇が描かれる。
あたかも、ロッキーのカムバックのようで、こちらは胸を躍らされる。
BGMは、その後も、中国風であったり、オペラであったり、中東風であったり、この物語のスケールと展開を裏打ちしてくれる。
◇
感心するのは、映画を作る各構成因子に割かれた、製作のNHKの豊潤な予算である。
くだんの音楽の重厚さもそうだが、
ドキュメントタッチのざらついた暗い色調の映像にあって、贅沢に使われた予算での美術はリアリティを生む。
これまでの邦画は、「本物」を、明るい中で、せっかくだからと、これみよがしに見せていたので、却って安っぽくなってしまった。
「本物」は暗がりの中であっても光彩を放つ。
そのような映像効果は、例えば、実際にはそうなのかも知れないが、映像的には、やや「秘密基地」の如き鷲津の事務所のディスプレイなどを説得力もって見せてくれる。
◇
編集の仕方も独特であり、スピーディーである。
例えば、劉の来歴を調べるために、鷲津の腹心が中国で調査をするのだが、劉の故郷と思われる場所が偽りであったと分かると、腹心は、サッと、帽子を被ろうとする。
その帽子を被ろうとする瞬間に、画面が切り替わるのである。
つまり、そこでの「用済み」を表現している。
とても、無駄がなく、リズム感がある。
作品は、そんな合理的なスタイリッシュさに満ちている。
鷲津の性格が、編集ともシンクロしているのである。
また、クライマックスでは、画面が切り替わり、すぐに、その後のシーンが見たいときには、あえて、画面を1秒ほど暗転させるのである。
1秒の欠落は、映画の中では非常に長い。
その「ため」は、見ているものの欲求を非常に高める。
劇中で三度ほどあったか。
作り手の計算なのだろうが、心憎くも、恐ろしいテクニックである。
◇
鷲津の、自然なクールさは、無個性なようで、近年稀に見る個性的な役柄である。
映画館を出た私は、ちょいと、主演の大森南朋に影響された表情を作っている自分を感じた。
劉役のイケ面・玉山鉄二は、その清潔感が、中国的な臭いを持っていて、いいキャスティングだと思った。
正体を見抜かれたときの怯えの表情が良かった。
その最後は、『太陽にほえろ』の刑事殉職シーンを髣髴とさせた…。
栗山千明は、美人だと思っていたが、顎の骨格の、頬への浮き出具合が気になった。
「顎の骨格の頬への浮き出具合」が、伊藤淳史にクリソツだ^^;
しかし、思えば、そもそも、「顎の骨格の頬への浮き出具合」の元祖は、この作品にも出ている嶋田久作ではないか!
◇
この作品には、派遣切りやサブプライム問題など、タイムリーな時事がうまく盛り込まれていた。
高良健吾演じる派遣工員は、物語の終盤では、赤いアカマGTに乗り、都会を走っている。
私には、この後、この工員が、秋葉原に突っ込む未来が予感された。
(注:ああ、私、高良工員が株価を眺めているシーンを忘れてました!
彼は株で儲けたのですね^^;アチャー)
・・・工員としての高良はリアルだが、このようなタイプは組合運動などはしないと思う。
◇
つくづく、私は、時代の渦中で生きていると思っている。
私は、派遣社員として、車体組立工場で働いていたこともある。
もっとも、私が車体工場で働いていた頃は、派遣法が改悪(労働者にとって)される前で、月に50万円稼ぐことも可能であった。
私は、常に必要とされていた。
だが、その後、他の現場での、派遣社員の苦境を見、戦ったことがある。
このネットの世界を舞台に主張を発信して、である。
結果は勝利。
私は常に勝利する。
そして、すぐに、その勝利に固執しないで去る。
故に、作中の派遣工員のような「ピエロ」になることはない。
鷲津は、物語の終盤で「後はお任せします」と、直ちに退席する。
対して、劉は、アカマ自動車への理想と、中国政府の非情との狭間で、ピエロとなって野垂れ死ぬ。
・・・悲しいかな、ピエロとは、アイデンティティーを喪失したものの右往左往である。
(2009/06/09)