懐かしい昭和の情景を追って

過去に撮影したネガをフィルムスキャナーで電子化しています。蒸気機関車、古い町並み、茅葺民家を投稿します。

懐かしい物  木の橋

2014年02月19日 | 懐かしい物
撮影場所  岡山県落合町 現在は真庭市

国道313号線沿いの備中川に架かる橋
今も仮設のままで何度流されても杭を打ち込み仮設の橋を造る。木の杭が鉄パイプに変わっただけで仮設のままだ。
この付近に集落もなく誰が何のために使っているのかと思う。向かい集落には山沿いに道がある。
これを使って田圃に行く人がいるのか自転車で移動する人がいるのか
コンクリートのしっかりした橋が出来るまでの陳情のための訴えのようにも見える橋だ。
ここを通るたびまだ仮設のままで頑張っているとおもう。





懐かしの蒸気機関車写真展 その62「操車場 その2 」

2014年02月18日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 北海道函館本線 函館の操車場

函館の操車場も広い、発車前や入れ替え中の蒸気機関車を追って歩きまわる。ヤードが広く列車が行き帰ので横断するのは難しい。
今のようにズームレンズがあれば楽だが標準レンズではそばに行かないといけないので厳しいものだった。
しかし、国鉄の職員の方もSLファンの行動を大目に見てくれた。
職員の前で撮影しても許してくれたのが有難い。
鉄道は人身事故も多く大変な危険な場所である。
関係のない人間は立ち入り禁止の場所である。
立ち入りを厳しく制限されていなかった時期に撮影できたのは有難い。

D52ラストナンバーの横を特急北斗が函館駅に向かう。
北海道の特急はキハ82系だったそうだ。馬力の強いキハ181系は入っていなかったと写真展の時に説明してくれた人がいた。鉄道マニアは詳しい。

蒸気機関車の写真展の投稿もあと残り二つ

次回の写真展が三月から始まるので今月中に終わらせたい。

日本茅葺紀行  NO,109 秋田県雄和町の民家

2014年02月17日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 秋田県雄和町(現在は秋田市)

雄和町にある片中門の茅葺き民家、大きな旧家です。
東北には大きな茅葺き民家のの屋敷が残っている。
裏にも茅葺き民家がある。
夕暮れで暗くてやっと撮影する。
秋田の茅葺き民家を撮っている人のが案内してくれた。
車の後ろを付いて行ったのでどこの道を通ったか判らない。
東北はチューリップや水仙の花が大きく鮮やかである。
花のあと気温が涼しいので球根が大きく太るのであろう。
冬の雪は成長に影響しない。むしろ雪で温度が零度以下に下がらないので
都合がよいのか


茅葺き民家 クド造りを裏から見る

2014年02月16日 | 茅葺き民家
撮影場所 佐賀県武雄市


佐賀県のまだ沢山残るクド造り
竈のくどに似ているのでこの名が付いたといわれている。
正面から見ると余りしまりのない造りである。
裏に回ると面白いし構造である。
なぜこんな形が生まれた諸説ありネットで見てください。
裏からも高い場所があれば登って撮影したい。
佐賀は平野が多いので高いところから見える民家はすくない。
民家も板張りの昔ながらの民家に出合えるとうれしいがサッシや新建材だとがっかりする。
棟仕舞はがんぶり瓦を乗せている。
武雄あたりは梟の耳のような飾りは見られない。



懐かしい物 キハ181系やくも

2014年02月15日 | 懐かしい物
撮影場所 伯備線高梁近郊、岡山駅


伯備線電化前は特急やくもはキハ181系(気動車特急)で運用されていた。
伯備線は昭和57年に電化されてその姿を消した。
伯備線からキハ181系が姿を消すにも蒸気機関車のように惜しむ声は少なかった。

キハ181系は1968年から1972年に185両が製造された。
近年まで国鉄時代の気動車として人気があった。


懐かしの蒸気機関車写真展 その61「操車場 その1 」英雄気取り

2014年02月14日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 福岡県田川市後藤寺構内

国鉄は貨物の仕分けや客車、貨物列車の置き場に広い操車場のヤードを持っていた。
特に都会の近郊では駅にも近く一等地として売り出された。
国鉄の負債の処理にこの遊休地の売却益があてられた。
国鉄の民営化にあたり貨物輸送はトラック輸送に敗れ大きく縮小された。

蒸気機関車の終焉の頃にはまだ貨物輸送は盛んであった。
しかし、こんな昔ながらの貨物列車や客車、機関車が無くなるとは想像もできなかった。
そんな先読みが出来ればいくらでもいた貨車や客車、機関車の写真を撮っていた。
周辺の建物も木造が多く昭和の風景である。

蒸気機関車の前面に何も持たず立っている人々、機関車を足代わりつかっている。
まるで英雄気取りだが就業規則違反である。
国鉄の労働意欲のたるみをあらわしている。
こんな写真をよく撮っていたものだ。この時は25歳くらいだったと思う。
10代の学生ではこんな光景にはシャッターを押さなかったであろう。
その当時の国鉄の労使紛争も頭に入れてシャッターを押していると思う。少しは大人になったであろうか。


日本茅葺紀行  NO,108 山形県河北町の民家

2014年02月13日 | 日本茅葺紀行
撮影場所 山形県河北町

河北町はベニバナの生産が盛んなところである。
ベニバナ館というベニバナで栄えた館がある。
以前見たサスペンスドラマのベニバナ館殺人事件の撮影にも使われた。
私はサスペンスドラマは見ないが家内が見ているのを食事の時に見たのを覚えていた。
ここで殺人事件が撮影されたというが家内はさっぱりと忘れていた。
係りの人にベニバナ殺人事件の撮影がありましたねと話したら何回があり旅番組の取材でもよくきますと言っていた。

ベニバナは赤の染料である。
ベニバナはアザミの仲間でトゲがある。
花の色は黄色だかここから一パーセントの赤の色素を抜き出す。黄色い染料は割と手に入りやすいが赤に対する憧れが大変強い。
ベニバナと金が同じ値段で取引された。
赤の染料はは茜など限られていた。
ベニバナを唇に塗りたい花摘みの少女がトゲにささりその思いが赤い染料になっとも言い伝えられている。
今は染料も顔料も人工合成できるようになり天然染料の需要は激減したが天然の植物から染料を得ていた時代の人間の努力が感じられる。

山沿いに昔からの町並みがある。今は狭い山沿いの道を避けて田圃の中を広い国道が走っている。そんな山沿いの集落に昔ながらの集落や茅葺き民家が残っている。
茅葺き民家を車の中から撮っていたら地元の女性があれは火の見櫓と言っていた。
木で造った常夜燈かと思ったらこの中で人が監視していたのだそうだ。
こんな低いので監視できたのか冬は火鉢を抱えてみていたのであろうか
青森の火の見櫓は鉄塔の上部が小屋になっていて人が一人常駐できるようになっていた。

茅葺き民家 雪の美山町

2014年02月12日 | 茅葺き民家
撮影場所 京都府美山町

12月の末、。美山町に撮影に行く冬型の天候、雪を予想してチェーンはもっていく。
美山町の手前で雪となる。美山町も奥に行くと20センチくらい降っていた。
予約していた民宿からこんな雪では来ないのでは家に電話があったようだ。携帯電話もネットもない時代、雪の状況もつかめない。
美山町には14時にはついた。高速も完備していなかったのでずっと一般道を走る。
雪がしきりと降っていた。私は雪の後より雪が降っている時が好きである。
風景に風情がある。しかし、雪がレンズに着くと水滴になるのがいやだ。
厳冬期の北海道だと冷凍庫の中なので雪が付いても水滴にならず払えばすむ。
このころ美山町には300軒の茅葺き民家が残っていると書かれていた。
指定を受けた北地区は33戸の民家のうち17軒が茅葺きだった。それが毎年のようにトタンから茅葺きに復元されていったろ。あとほど茅葺きが多くなった。




懐かしい物  手押しポンプ

2014年02月11日 | 懐かしい物
撮影場所 岡山県勝山町神代(現在は真庭市)

畑に手押しポンプがあった。
かって民家があったのか畑の水やりに使っているのか不明
バックに茅葺き民家があり撮影する、
山からの伏流水が流れているのか水のでるところに人は暮らしたとおもう。
水があり畑や田になる所を開墾しながら新しい土地に移り住んできた。
山間の地にも永く暮らしてきた人々の歴史がむある。
この周辺の民家は人は住まず取り壊されている。。
日本の山間の各地では人が住んで何百年、千年の歴史が加速度的に放棄されようとしている。




懐かしの蒸気機関車写真展 その60「三重連 その4 」

2014年02月10日 | 懐かしの蒸気機関車写真展
撮影場所 岡山県新見市井倉 伯備線井倉の鉄橋


井倉周辺の地図を見ると高梁川は何度も蛇行している。
鉄道は直線的に造りたいので蛇行の都度、橋を架けたりトンネルを掘らなくてはならない。
蛇行の要因はこの地域が石灰岩のため浸食されやすく深い谷を作っている。
岡山県西部広島県の東部は石灰岩地帯である。
石灰岩の浸食された所は垂直に切り立った壁になっている。
その高さは100メートルを超える。
石灰岩は岩石ではなくサンゴなどの化石で炭酸カルシュームが主成分である。
岡山のある地域では日本のコロラドと命名しているが知名度は低い。

蒸気機関車が終焉の頃、いろんなイベントが開催されれた。
三重連の運転に井倉の先の鉄橋を選んだ。
三重連が全部入り障害物がないところで煙を吐きそうなところを選んだ。
知り合いの男の子を二人連れて撮影に行った。小学生で蒸気機関車の初めての撮影だった。
子供にとっては思い出に残る撮影だったとおもう。

写真展をした時に同じ鉄橋で撮影した写真を全紙のパネルに貼った写真を持ってきた人がいた。鉄道写真を撮る人からもらったと言っていた。
同じ日に対岸から撮った物で舟を手前に入れた素晴らしい写真だった。
大勢の人が撮影に行ったので沢山のネガが残っていても不思議ではない。
写真が素晴らしいのは昭和47年2月に撮った写真が現在にパソコンで見られることだ。