アルツ・ジェンギンス夫婦の記録

重症アルツで亡くなった父の記録と現在100歳の母と高齢者みるきーの記録。

101.5歳 脳梗塞から140日 

2024-08-04 10:10:00 | 100歳介護
3月に脳梗塞で警察病院に搬送された母は、回復の見込みがなく、喋れない、動けない、食べれない、、、なので、6月から療養病院に転院して、死ぬまでそこにいることになりました。

穏やかに死を待つ病院、、というより、建物です。

ところが、101歳の母だけ、こんなに↓元気で意識がある。




介護しさんが気を利かせて車椅子に乗せてくれました。

一緒にパリオリンピックの柔道を見ました。

1番を取りたい!というある種の人類たちがたくさんいます。
銀メダルや銅メダルでも喜べる人間が私は好きです。


午後4時半になると、夕飯の時間です。
母は、鼻から食べます。
隣の人は、胸から食べます。

↓食事中


無理やりイイコイイコさせてます。


私が帰る時は手を振ってくれます。
私の姿が見えなくなるまで手を振って、うなづいてくれます。
ある日は珍しく寝てました。
他のベットの方は、一生寝ています。
生きてるだけでイイ!
という気持ちは私にもわかります。
辛くないなら生きてて欲しいです。
でも、寝返りも自分でできないと、気持ちがどうかなりそうになるはず。

子供を産んで、孫ができて、ひ孫ができて、、優しい家族に囲まれて幸せな101歳です。

退屈な一人暮らしなので、ラジオを聞いてます。どなたかの介護士さんが家族がいない時もコンセントを差し込んで聞かせてくれてます。
入院した時は、『電池で、イヤホンで、私物は持ってこないで』と叱られたんですが、誰かが、母にラジオを聞かせてくれてます。
感謝します。

周りの人は目も開けないで意識不明だけど、母は笑います。

検査も治療もしないところなので、私が調べます。 血液中の酸素量99% 👍

心電図異常なし

心拍数79


ある日は、100%
いつも96以下の私よりはるかに健康だ、

ある日は、1番可愛がった孫夫婦がきてくれて、手を握りたがって喜んでくれた。

今月のアレンジ。
夏は花が1週間持たない。

発がん性物質がたくさん見つかったサイトで買った高いバンドは、
腕に入らなくて、使えないし売れないし返品不可だし、騙された! 

ずいぶん前に預かった猫は、まだ家にいる。







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101歳 脳梗塞120日経過  意識ある

2024-07-20 07:32:00 | 100歳介護
101才の母が、特養施設である朝ダラんとなって
救急搬送するか?しないか?の電話があったのが2024年3月23日。
私が、肺炎で死にそうに苦しんでいる時だった。


母の孫が付き添ってくれた



警察病院で経鼻栄養の処置をして栄養を確保し、飲み込むリハビリを2ヶ月してもらったけど、すこしずつ回復したものの、話せず、体を動かせず、食べれずで、次の選択を迫られた。



車椅子に座り、外を眺め、こちらの言うことは理解できるまで回復したのに、、


1️⃣家に帰って好きなものを食べて亡くなるまで家で過ごすか(食べれないのに?)

2️⃣施設に戻って栄養を与えず数日だけ生きて看取りをしてもらうか

3️⃣療養病院で栄養を与え最後まで病院で過ごすか

そして、5月31日、近所の療養病院に転院した。


介護タクシーで転院。

転院から50日たった。

最後を迎えるためのこの療養病院とは、なんて悲惨なのだと感じる。
この悲惨な病院で働くのって、
癌のホスピスとは一味違う。

入院患者さんは、意識がなく、身動きできず、食べれず、目を開けず、口を開けて寝たきり。

時間になるとオムツを替え。
時間になると胃にドロドロの食事が流され、
時間になると体の向きを変えてくれる。

穏やかに最後を迎える入院だから、
血中酸素も血圧も管理されてない。

そんな意識不明の入院患者の中にいて、
101歳脳梗塞の母は、
目を開けて起きてるし、ラジオを聞き、起き上がりたいと意思表示をし、何かを訴えて喋ろうとしている。
手を握って何か訴えてるし、笑ったり、喜んだり、返事もするし、バイバイの挨拶もする。

起きれる母を寝たきりにする病院。

病気を治す病院ではないから治療はしない。
治る見込みがないからリハビリはしない。
そんな病院であることを理解しろ!
と、しつこく言われて入院した。

悲惨な建物だ。

延命治療を希望したわけじゃないんだけど、

延命を願う家族をあざ笑うかのような印象だ。

午後3時になると先生は、すごいベンツに乗って帰宅する。
古い建物で治療をしない病院だけど、
先生は新しい高級車で土日休みの生活。


帰る時はバイバイしてくれる

ごくたまに、面会に行くと眠ってる

孫が面会すると喜ぶ😃
孫たちはこの母のおかげで大きくなった。

ラジオやハワイアンを聞かせている。
優しい看護師さんが、ハワイアンをかけてくれたりしている。

笑うし

手も強く握って何かを訴える

私の手がちぎれそうなくらい握る
優しい看護師さんが車椅子に座らせてくれた。


警察病院に入院している間左手がすごく腫れていたけど、もう腫れもむくみも、おまけに体の肉も無くなった
徒歩で行ける近所の悲惨な病院にしたので、
週に5日は面会できる。
姉とは、ここでバッタリ出会う。







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101歳 脳梗塞搬送 80日

2024-06-13 11:27:00 | 100歳介護
やや歩けて、自分でご飯を食べれて、テレビを見て、コミュニケーションもとれていた母が特養施設でダラリとなって救急搬送されて80日が過ぎた。

救急病院で2か月過ごし、納得いかない療養病院に転院して2週間が過ぎた。

穏やかに死ぬための病院だと担当医から入院当日に説明され、
死ぬための病院だから、生きる回復はしてくれなくて、
寝たきり😢

撮影は禁止されているので、写真もない。

CDラジカセを聞かせていたら注意された。
他の患者さんと話をしていたら注意された。
鼻の栄養チューブを母が抜いてしまったといわれ、
面会の間はずしていたミトンを付けられてしまった。
見学に行った時あんなにニコニコ説明してくれたひとが、廊下で会っても笑ってくれない。

母にイヤホンで音楽を聞かせようとしたら、手を振ってダメダメと動作で示した。 看護師さんになにかいわれたのかなぁ。
【上のものと相談してみます】って看護士さんは私に言ったけど、何がいけないのか私には理解できない。

バイバイするし、手を握るし、うなずくし、言葉をいわせれば声を出してくれる。 栄養は鼻から。 周りの患者さんはねてるけど、母は目を開けて起きている。 救急病院の時は車いすに座らせてもらっていたのに、ここじゃ、寝たきりだ。 






たくさん注文していたおむつ類が余ってしまったので、ネットで安く販売している。 他の人たちはすごく高く売っているので、転売して儲けているようだ。


もう着ることのないパジャマや母の洋服が山ほどある。
古いのはリサイクルに出したけど、まだまだ着れるのを捨てれない。
母が生きているうちに、始末する。
亡くなってから、まだ捨てれないでいる友人知人が多くいるけど、わたしは生きているうちに始末する。




いつも、父の服を着てくれた仲間が、母の服も義母さまに着ていただけるというのでご夫婦で来てくれた。  まずはステーキランチ。





そして、家に案内してスイーツ。



こんな写真も撮ってくれた。



ありあまる母の服。




ついでに自分の新品のドレスたちも売りに出した。






ある日は電車の見える居酒屋で乳がんで亡くなった友達を偲ぶ会。






ある日は、趣味の仲間と恵比寿で中華




ある日は、同級生とワインの会。 久しぶりに千鳥足で帰宅。




ある日は、築地でフグの天ぷら。
それが、どうも、あまり、まずくないけど、おいしくもない。
たぶん、誰にも勧めない。



まいあさ、自宅でこんなサンドイッチをつくって食べてる。
ものすごくおいしい。自家製大葉とバジルもいれて香りも楽しんでいる。


そして、肺炎から復帰したわたしは、この1か月右のお腹がずっと痛い。5年も前からこの腹痛でCTとったり胃カメラしたり、大腸カメラしたりしたけど、また痛い。  なんだろ? 日中は忙しさにまぎれて痛みをわすれているけど(痛いけど)朝起きてじっとしている時が一番痛みを感じる。

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101歳 転院 医師から死ぬことを延々説明された

2024-06-02 18:36:00 | 100歳介護
2023年8月 自宅から特養施設入所
   (歩ける、一人で食べれる、ほぼ喋れる、少し手が使いにくい)

2024年3月23日 脳梗塞で救急搬送
   (歩けない、食べれない、飲めない、喋れない 寝返りもできない)

   (車いすに座れる、バイバイできる、ジャンケンできる、あーうーとか言葉を出せる、指さす、強く手を握る、うなずく、否定の首も振れる)

2024年5月31日 療養病院に転院

介護タクシーでストレッチャーのまま運ばれる。
すべて運転手さんが手際よくやってくれた。13500円

療養病院に到着したら、4人くらい玄関のそとにお迎えに出ててくれた。
感じがいい💖
事務員さんも、案内の若い男性も感じがいい💖

ところが
医師からの入院説明が2時間近く続いた。
医師は、紙を見ながら1項目ずつ説明し、チェックを入れていた。
その紙を、患者家族に渡せば済むんじゃないかと長い説明の時思った。

どんな説明かと言うと、
これから死ぬことを延々と語られた。
今日死ぬかもしれないという内容が延々と語られた。

死んだときの言い逃れっていうか、言い訳っていうか、文句を言わせないための説明だった。

【ここは、治療の病院ではなく、最後を迎えるための病院です。
治療はしません、治療のための検査もしません、最後を穏やかに過ごしてもらうための病院です ・・・】

私と姉は、棒付きの飴を上げたいとか、リハビリしてほしいとか、車いすにすわらせてほしいとか、希望をだしていたんだけど、この医師によって、すっかり希望を失った。

病院選びの時は、患者によって、飴も預かる、できるだけリハビリもする、車いすもいろいろなタイプが用意されている。。。。なんて言ってたくせに、
医師は、【 脳梗塞で倒れて2か月たち、治ってないということは、もう治らないので、リハビリの必要もない。これから立ち上がって歩くはずもない。】
夢も希望もないことを小さな声で、延々しゃべり続けた。




母の左手の腕があおタンで真っ青で、そして、指全部が腫れあがっているのは骨折してるんじゃないかと、この先生に聞いたら、
痛がらないから、骨折じゃない! 年寄は、すぐ青くなるんだ!
・・・・年寄は関節が外れてても痛くない・・・って言ったから聞いたのに。

リハビリの先生は来るけど、リハビリはしないで、飲めるか飲めないかの判断をするだけです。
熱が出たりしても家族には連絡しません。
ここも病院だから、風邪や痛み止めはあるのでその処置はする。

2時間、、、あと何をいってたかなぁ
とにかく、すぐに死ぬって言ってた。

こんなにぐじゅぐじゅ説明されるなら、この病院にしなければよかったけれど、どこの医者も本音はこれなんだろうな。

母は、男女混合の4人室に寝かされていた。
思っていた部屋よりきれいだった。

この病院は、なーーーーにも持ってこなくていいというので、なーーーーーにも病院にもっていかなかったから、
わたしは、施設の荷物と、救急病院の荷物を自宅に持ち帰り、荷物だらけになった。 テレビも、持ち帰った。

服や下着の処分は早めにする。
死んでから衣類を残されるのは悲しいから、生きているうちにする。


救急病院、ある日の、面会は外のベランダ庭園。 いい風にあたる母。
最後の外の風だったかも。



こんなにしっかりしてるある日の母、 ずいぶん回復した。

面会の帰りに、アサガオの苗をかって、[ もみじ公園 ]とやらに歩いて行ってみた。

わ! もみじだらけ。 紅葉の季節に是非来てみようと決心した。






ある日の面会で、ストローで炭酸水を飲ませてみた。
けっこう飲めるんだとおもったが、 ある日紅茶をあげてみてよく見たら、
ストローに入った飲み物って、ストローから落ちないんだ! 



救急病院 母の病室からの景色。 もうすぐ転院するから、この景色とはお別れ。



病院で与えられていた薬。




ある日の面会の帰りは、 外でハワイフェス。 先週もハワイフェス。



もう一つの広場ではビールフェス

生きていくには楽しみがひるようなんだな。

楽しめなくなったら、療養病院で最期を迎えるんだ。
元気な人のホスピスだった。

父が最後に入院にしていた療養病院は、みんな元気だったなぁ








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101歳 脳梗塞 60日

2024-05-22 10:29:00 | 100歳介護
特養施設から救急搬送されて脳梗塞のため、喋れず、食べれず、飲み込めず、動けずの母になってしまって60日経過。

ジャンケンも、バイバイもするし、笑ったり、痛がったり、ウンといいえん返事もできる。

不自由になっただけで、以前の母のままだ。

それを主治医が、このまま5日で亡くならせるかどうするか?って私に3回くらい電話してくるから嫌だ。


ある日は睡眠中の面会



ある日は座るリハビリ中で一緒に外を見る



母の日は、きっと家族がくると介護士さんが言って、座って待っててくれた。
外が良く見える談話室がある。
早稲田大学と、明治大学と、帝京大学が並んで建っている。




姉が面会に行ったら、ベートーベンがいたとと言っていた。
美容院をお願いした。






自分で飴をもって食べれる。
面会票をよく見たら、食べ物絶対禁止って書いてあったので、もうやめとく



車椅子によく乗せてくれる介護士さんに感謝



入れ歯を外されてるので、美貌もだいなしだけど、おしゃれな髪形で笑ってくれた。




ある日も、広い談話室で面会



土曜の面会の帰りにウロウロしていたら、新井薬師になった。


面会の帰りにパンを買う悪い習慣ができてしまった。
サクサクのリンゴパイだった



バスに乗ろうとしたら、うちわやさんがあった。 近所にうちわの会社があったんだ。



栄養が足りてなくてまもなく死ぬと主治医が言うので、療養病院を探している。 ここは、すごくいいのに、残念なのは、面会が週に1回しかできない。

1 ほったらかしで狭くてくらいんだけど毎日会える病院
2 リハビリもして広々のお部屋の病院だけど週1しか会えない

さて困った。





面会の帰りに朝顔の為を探したけれど、苗を買った。 楽しみ

土日は病院の外の公園でフラフェス



スケジュールいっぱいの母。




こんな写真が出てきた。 




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アルツ・ジェンギンス夫婦の記録

16年間アルツハイマーと戦った父ジェンギンスは2008年2月14日に亡くなりました。壮絶介護→施設入所→胆管癌による死。大切な父の最期の介護記録をここ残しました。 そして、夫を亡くした母は初期認知が進行中です。 年寄りと暮らす苦労を記録中。