11月30日です。
1年前、ジェンギンスが胆管癌と知らされ、
毎日毎日ジェンギンスの顔を見に
病院へ通いはじめた頃です。
風が吹こうが、槍が・・何? 飛ぼうが?
毎日病院へ通いました。
アルツになったジェンギンスの最初の12年間は
母が一人で介護しました。
その後2年間は、私と母と2人で超絶介護をしました。
最後の2年間は、私とジェンギンスの孫であるチョコパンと
2人で一生懸命、一生懸命一緒に過ごしました。
死ぬ時期がわかるものなら
介護の仕方も変わってきます。
毎日が命日だと思って介護しましたが、
だけど、まだ生きていると思うから
十分に見てあげれなかったような気がするし、
あっという間に亡くなった時には
もっと何かをして上げれたはずだと思って
悔やみます。
最後はジェンギンスを家に帰してあげたかったけれど
あの状態で、車に乗せて帰宅をさせることは
難しかっただろうし、
介護抵抗が最後まであったから
オムツ替えの難しさが頭をかすめた。
母も入退院していたので
母のそばにジェンギンスを寝かせて介護も出来なかったし
と、自分に言い聞かせる。
ジェンギンスは死ぬ瞬間まで
たぶん意識があったと思う。
点滴で眠ることをしなかったので
最後まで話しもできたし
音楽も聞いて手拍子をしていた。
タンキュウインを強引にする看護士に
怒鳴っていたし、抵抗もしていた。
だから、ジェンギンスに会う楽しみもあったってものですが、
眠っていた方が、ジェンギンスはつらくなかったと
思う。
しかし、しかしだ、
眠っている周りのお年よりは
タンキュウインの時は、叫んでいましたから
よっぽど苦しいのでしょう。
なにわともあれ、
ジェンギンスは今、寿命を使い果たし
楽になったのです。
一生を終えるってことは
最大の痛みだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それは前置きで、
母が風邪をひきました。
咳をして寝込んでいます。
今朝、日曜日、階下へいくと
母は寝たままで、
吐いたり何ダリして具合が悪かったそうです。
咳が沢山出ます。
状況からして、吐くというのは
関係ないように見えますが
不明です。
金曜に丁度近所の内科で、抗生物質と胃の薬を
すごい大きさの薬袋にいれてもらってきました。
だから、その薬は飲んでいましたが
悪化してきました。
=============
母に柿をむいて、ゼりーのドリンクと
御飯と、ビタミンドリンクを出して、
薬を飲ませました。
熱は37度。
それだけして、わたしは
バッタリ倒れます。
ド貧血です。
もう、立てません。
たぶん、二日酔いです。
ひどいです、二日酔いド貧血です。
母が咳をしても、咳止めの薬を上げることも
出来ません。
しばし、2階で足をあげて眠ります。
しかし、今日の日曜は不動産関係のもめ事で
大事な人と会う約束をしていました。
もしかしたら行けないかもと、
メールをしましたが、
メールアドレスがわからなくて
チョコパンにパソコンから探してもらいました。
水没携帯のせいで、だれとも連絡を取れない
私です。
向こうからの連絡は受けれますが
こちらは、アドレスの記憶がないのです。
パソコン操作をしたくても
起きれない私でした。
午後3時ころピンポ~ン とチャイムが鳴ってましたが
無視して寝てました。
もう一度ピンポ~ンと鳴ったら
母が出ていきました。
パジャマ姿で出ていったのです。
チャイムを無視する事が出来ない
昔の人なのです。
私は起きれず、まだ寝ていました。
~~~~~~~~~~~~
夕方4時半頃目が覚めると
私の体調が良いみたいなので
起きてみました。
とりあえず母にオジヤを作って食べさせないと
いけないので
野菜を切って御飯と一緒に煮込みはじめました。
メリーに注射もしないと死んでしまいます。
母がキッチンにやってきて
さっき、近所の人がりんごを持ってきたことを
教えてくれました。
夕飯は要らないから、りんごをすって、今食べたいと
言ってくれました。
りんごをすらなきゃ。。と思っていたら
わたしは、ド貧血で、
倒れながら2階に行って
死にそうでした。
そこで、チョコパンがショッピングから
早々に帰宅してくれたので
オジヤ作りと
りんごすり・・初体験を
代わってくれました。
女の子は、なんて助かるんでしょう!
自分が具合悪い時に、介護をしなければいけない
つらさは、やって見なきゃ解らないつらさです。
手助けしてくれる人がいるのは、有り難いことです。
また、母が見守りが必要な認知症ではないことも
有り難いです。
階下にほっといて大丈夫なので
助かります。
私が寝ていたら
チョコパンがオジヤとりんごを持ってきてくれました。
有り難いことです。
お陰で、そこから、すっかり元気になりました。
チョコパンは夕飯に
餃子を焼いて昨日自分で作ったキムチ鍋を
一人で作って食べてくれました。
餃子焼きも初体験ですが、焦げずに焼けていました。
わたしは、いっつもいっつも
餃子を焦がします。
鍋から離れなくて、ビロビロだったりします。
大好きなお酒を
わたしの体は受け付けなくなったのでしょうか・・
そんな、寂しい話しは嫌です。
きのうは、
生グレープフルーツサワ 一杯
生グレープフルーツサワ 一杯
生ぐれーぷオレンジサワ 一杯
日本酒 3人でとっくり5本
酔わないように、かなり押さえて飲んでいたんだけど
駄目だった。
それに、ぜんぜん酔わなくて
全くの正常だったのに・・・
先週の金曜に同様に飲んだ時は
次の日壮快で喜びを感じたのですが
先週は 3人でとっくり4本だったから
そこが大きな違いでしょうか・・
今日の苦しみを思うと
もうお酒は飲みたくありませんが
でも、おさけが好きなのです。
美味しくて、たまらないのです。
1年前、ジェンギンスが胆管癌と知らされ、
毎日毎日ジェンギンスの顔を見に
病院へ通いはじめた頃です。
風が吹こうが、槍が・・何? 飛ぼうが?
毎日病院へ通いました。
アルツになったジェンギンスの最初の12年間は
母が一人で介護しました。
その後2年間は、私と母と2人で超絶介護をしました。
最後の2年間は、私とジェンギンスの孫であるチョコパンと
2人で一生懸命、一生懸命一緒に過ごしました。
死ぬ時期がわかるものなら
介護の仕方も変わってきます。
毎日が命日だと思って介護しましたが、
だけど、まだ生きていると思うから
十分に見てあげれなかったような気がするし、
あっという間に亡くなった時には
もっと何かをして上げれたはずだと思って
悔やみます。
最後はジェンギンスを家に帰してあげたかったけれど
あの状態で、車に乗せて帰宅をさせることは
難しかっただろうし、
介護抵抗が最後まであったから
オムツ替えの難しさが頭をかすめた。
母も入退院していたので
母のそばにジェンギンスを寝かせて介護も出来なかったし
と、自分に言い聞かせる。
ジェンギンスは死ぬ瞬間まで
たぶん意識があったと思う。
点滴で眠ることをしなかったので
最後まで話しもできたし
音楽も聞いて手拍子をしていた。
タンキュウインを強引にする看護士に
怒鳴っていたし、抵抗もしていた。
だから、ジェンギンスに会う楽しみもあったってものですが、
眠っていた方が、ジェンギンスはつらくなかったと
思う。
しかし、しかしだ、
眠っている周りのお年よりは
タンキュウインの時は、叫んでいましたから
よっぽど苦しいのでしょう。
なにわともあれ、
ジェンギンスは今、寿命を使い果たし
楽になったのです。
一生を終えるってことは
最大の痛みだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
それは前置きで、
母が風邪をひきました。
咳をして寝込んでいます。
今朝、日曜日、階下へいくと
母は寝たままで、
吐いたり何ダリして具合が悪かったそうです。
咳が沢山出ます。
状況からして、吐くというのは
関係ないように見えますが
不明です。
金曜に丁度近所の内科で、抗生物質と胃の薬を
すごい大きさの薬袋にいれてもらってきました。
だから、その薬は飲んでいましたが
悪化してきました。
=============
母に柿をむいて、ゼりーのドリンクと
御飯と、ビタミンドリンクを出して、
薬を飲ませました。
熱は37度。
それだけして、わたしは
バッタリ倒れます。
ド貧血です。
もう、立てません。
たぶん、二日酔いです。
ひどいです、二日酔いド貧血です。
母が咳をしても、咳止めの薬を上げることも
出来ません。
しばし、2階で足をあげて眠ります。
しかし、今日の日曜は不動産関係のもめ事で
大事な人と会う約束をしていました。
もしかしたら行けないかもと、
メールをしましたが、
メールアドレスがわからなくて
チョコパンにパソコンから探してもらいました。
水没携帯のせいで、だれとも連絡を取れない
私です。
向こうからの連絡は受けれますが
こちらは、アドレスの記憶がないのです。
パソコン操作をしたくても
起きれない私でした。
午後3時ころピンポ~ン とチャイムが鳴ってましたが
無視して寝てました。
もう一度ピンポ~ンと鳴ったら
母が出ていきました。
パジャマ姿で出ていったのです。
チャイムを無視する事が出来ない
昔の人なのです。
私は起きれず、まだ寝ていました。
~~~~~~~~~~~~
夕方4時半頃目が覚めると
私の体調が良いみたいなので
起きてみました。
とりあえず母にオジヤを作って食べさせないと
いけないので
野菜を切って御飯と一緒に煮込みはじめました。
メリーに注射もしないと死んでしまいます。
母がキッチンにやってきて
さっき、近所の人がりんごを持ってきたことを
教えてくれました。
夕飯は要らないから、りんごをすって、今食べたいと
言ってくれました。
りんごをすらなきゃ。。と思っていたら
わたしは、ド貧血で、
倒れながら2階に行って
死にそうでした。
そこで、チョコパンがショッピングから
早々に帰宅してくれたので
オジヤ作りと
りんごすり・・初体験を
代わってくれました。
女の子は、なんて助かるんでしょう!
自分が具合悪い時に、介護をしなければいけない
つらさは、やって見なきゃ解らないつらさです。
手助けしてくれる人がいるのは、有り難いことです。
また、母が見守りが必要な認知症ではないことも
有り難いです。
階下にほっといて大丈夫なので
助かります。
私が寝ていたら
チョコパンがオジヤとりんごを持ってきてくれました。
有り難いことです。
お陰で、そこから、すっかり元気になりました。
チョコパンは夕飯に
餃子を焼いて昨日自分で作ったキムチ鍋を
一人で作って食べてくれました。
餃子焼きも初体験ですが、焦げずに焼けていました。
わたしは、いっつもいっつも
餃子を焦がします。
鍋から離れなくて、ビロビロだったりします。
大好きなお酒を
わたしの体は受け付けなくなったのでしょうか・・
そんな、寂しい話しは嫌です。
きのうは、
生グレープフルーツサワ 一杯
生グレープフルーツサワ 一杯
生ぐれーぷオレンジサワ 一杯
日本酒 3人でとっくり5本
酔わないように、かなり押さえて飲んでいたんだけど
駄目だった。
それに、ぜんぜん酔わなくて
全くの正常だったのに・・・
先週の金曜に同様に飲んだ時は
次の日壮快で喜びを感じたのですが
先週は 3人でとっくり4本だったから
そこが大きな違いでしょうか・・
今日の苦しみを思うと
もうお酒は飲みたくありませんが
でも、おさけが好きなのです。
美味しくて、たまらないのです。