しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

黒塗りの教科書①服部百年誌

2020年06月09日 | 昭和20年(戦後)
「服部百年誌」   福山市服部百年誌刊行委員会 2001年 発行より転記。

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敗戦のすぐ後、秋ごろであっただろうか、教室に来た先生が硯を出して墨をするように指示された。
書道かなと思ったところ、先生は教科書を机の上に出させ、
○○ページの○○行目から○○行目まで墨を塗りなさいと順々に同様なことをすすめられた。

墨を塗った箇所は「天皇のために」とか「大東亜共栄圏」とか、
戦意高揚の言葉のあるところであった。
私は自らを「黒塗り世代」といい、その時の心の傷は今日なおどうしようもなく心の中に潜んでいる。

 黒塗り教科書に続いたのは新聞紙のような教科書である。
物資のないこのころ、教科書は本になった形で配布されたわけではない。
配られたのは新聞紙と同じような印刷物で、
それを縦に折り、横に折りして教科書と同じ大きさになる。
折り曲げたところをナイフで切り、右端を綴ると一ページ二ページと一冊の教科書になるわけである。

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ところてんを作る

2020年06月09日 | 城見小・他校
ところてんを作る

満潮の海は必ず6時間後に干潮になる。陸地が沖へ延びる。
大潮の干潮でトコロテンを採って遊ぶ。
そのトコロテンを家に持って帰る。
クドで煮る。
熱い真夏のクドは汗が飛び散った。
どろどろになったトコロテンをアルミの弁当などに流し込む。
少し経つと固まってくる。この時が面白った。
固まったトコロテンを包丁で切って食べる。
まだ温いトコロテンで、海藻の匂いがするだけの、美味しいものではなかった。


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越中褌

海で遊ぶ男の子は、海パンか褌だった。
褌は黒くて細く、少量の布と紐でできていた。
褌でなく”越中フンドシ”と呼んでいた。
半分か、それ近く越中フンドシの人がいたから、それなりに着心地がいいのか機能的だったのだろう。
管理人は海パンだった。
女の子の水着は覚えていない。
海で遊ぶのは男の子だった。


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図柄の浮き輪

家から海までは、どの子も水着で行っていた。
手に持つものは、
水中メガネ
浮き輪か桐の丸太
があったが、多くは何も手にしないで海に行った。
水中メガネは、
付けても水が漏れて入る。
桐の丸太は、
浮き輪の代わり。茂平の子で低学年。高学年は持って行かない。
浮き輪は、
町から来た子。
笠岡や福山から来た子は、白一色の浮き輪だった。
大阪や東京から来た子は、カラーでデザインがしてあった。
図柄の浮き輪は、茂平の子供にとって、それはまぶしかった。


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ムカゼとカブトムシ

桃の出荷が最盛期になると、どこの子も手伝いをしていた。
畑からホボロに10箱20箱と家の裏小屋まで持って帰る。
そこでは、ゴザを敷いて、その上に桃を置く。
桃は親が手にして等級(3等級くらい)に分けていた。
その準備作業で、
子供はホボロから一個づつ手にして紙袋から取り出していた。
桃は甘い果物なので、紙袋から桃といっしょに虫が出ることがあった。
カナブン。これは逃がす。
カブトムシ。角がある雄は歓迎。雌は逃がす。
ムカゼ(むかで)。問題はムカゼ。下手をすると紙を破った瞬間に噛まれる。
ムカゼも大きいのから小さいのがいた。桃と一緒に出てきても、どうしょうもなかった。
いないことを願うだけ、見たら触れずに、落としてずたずたにする。
ムカゼはほんまに嫌だった。



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