「昭和こども図鑑」奥成達著 2001年ポプラ社発行
に出てくるものを自分の経験範囲で書き残す。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちゃぶだい
ちゃぶ台の定義は知らないが、円形か四角形のテーブルはあった。
家族7人が揃って食べるということは、ほとんどなかった。
親は食べる事よりも仕事が大事で、(仕事が好きというのでなく、稼ぎのため)
落ち着いて食事をするのは年に数度のことだった。
食事の前後は、蚊やハエを防ぐ網傘をテーブルに置いていた。
トースター
冷蔵庫
洗濯機
テレビ
トースターは高校卒業してから
冷蔵庫は高校の2年生の頃だった。
洗濯機、中一か中二の時に買った。
テレビは中二の時だった。
大好きな相撲を見ようと思ったら、大ファンの若乃花が引退し一度も家で見れなかった。
縁台
夏の夜は、縁台を庭に出していた。
夕方は、蝙蝠が飛ぶのを眺め、
暗くなると、天の川を眺めていた。
時折、流れ星が落ちていた。
たまに、花火をしていた。
夏休みの好きな時間だった。
扇風機、エアコン
なかった。
田舎の農家に、
そんなものは必要がなかった。
蚊帳
蚊帳の中に入るのは、
夏の夜の寝る前の楽しみだった。
火鉢
火鉢は10個くらいはあった。
陶器や金属。
普段用と来客用。
その頃、
集会所や公会堂はなく、各家での輪番制で寄り合いをしていた。
ふすまを外して大広間、座布団、灰皿、火鉢は必需品だった。
金属は装飾品を兼ねるのもあった。
会合が終わると、飲めや歌えの時があり
茂平の飲み会は、終了無制限でつづいていた。
まあワヤだった。
でもこれ以上ない平和の時代だった。
練炭、堅炭、豆たん、消し炭、たどん
メインは消し炭だった。唯一無料のもの。
練炭は干しイチジク用のウムシに使っていた。
堅炭は、来客時に火鉢と、ふだんの七輪の料理に使っていた。
豆炭は、炬燵や、その後の豆タンあんかに使った。
たどんは何に使っていたかな?
煙管
祖父は人生キザミたばこ、いっぽん。
キザミを手にして
指で煙管に詰めていた。
火をつけて、ふぉ~~と、吸うような、吐くようなタバコだった。
晩年には茂平の最後のキザミの人となり、
吉本商店が、祖父一人のためにキザミを仕入れてくれていたという。
祖父は昭和60年くらいまでタバコを吸っていた。
煙草盆
祖父は、家で吸うとき煙草盆を身の前にもってきて吸っていた。
父のタバコは両切りタバコで、
昭和40年代になってフィルター付きのタバコに変えた。
ミシン(足踏み)
母は嫁入り道具にミシンを持ってきたことを自慢していた。
そのことは子供でも管理人にしか言わなかった。
管理人もまた、だれ一人母の自慢を話さなかった。
人様に自慢できる話でなことは母もわかっているが、自己満足だけではさみしかったのであろう。
母はミシンを大切に使った。
”織物ができなければ嫁にいけない”時代は過ぎていたが、
裁縫、縫物は大切な嫁入り条件だった。
最晩年の母は、毛糸でタワシを編んでデイサービスの仲間に配って喜んでもらうのを楽しみにしていた。
鏝(こて)
火鉢には鏝が入っていた。
こてはアイロン代わりに使っていた。
電信柱・枕木
クレオソートが塗られた丸太や各材。
裸電球
時々、フィラメントが切れた。
取り替えるのは子供の役目。
電球は、
♪お花になった・・・とんとん東芝の~マツダランプ、
電話
用之江の農協に1台あった。
城見小学校にはなかったような。
アッパッパ
祖母の夏服だった。
もんぺ
母の日常着。ふだんぎ。年中、朝昼晩がもんぺ。
日向ぼっこ
冬の寒い日、庭のいちばん日当たりのよい場所。
そこで老人が日向ぼっこをしていた。
猫といっしょで、ほとんど動かない。
年齢は80才を越えた人。
その当時の80才は、今で言えば95才位に相当する。
イガグリくん、おかっぱ
男の子は坊主頭。人気漫画に「イガグリくん」があり、イガグリ頭とも言っていた。
女の子はおかっぱ。三つ編は小学生にはいなかった。
男は家で刈っていたが、女の子は床屋か理容院に行っていたようだ。
蝉とり
蝉取りは道具は、
母が切れ端の布で作った袋を番線(はりがね)に通して竹竿の先に付けたもの。
竹竿の先の番線にクモの巣を付けたもの。
素手(手のひら)。
このうち、クモの巣が多かった。
良いクモの巣を探して歩くのが、すでに一つの遊びだった。
にいにい蝉に始まり、あぶら蝉、大きなクマゼミが出てくるころは、近所で誰が最初に取るか気になっていた。
遊び95%、残りの5%は「昆虫採集」がたまにあった。
トンボとり
トンボは近寄っても逃げないので、人差し指をぐるぐるしてつかまえようとするが、取ったためしがない。
ヤンマを捕まえると自慢になっていた。
ローラースケート、ホッピング
なし。
少年雑誌
男の子は「冒険王」「漫画王」「痛快ブック」「野球少年」「少年倶楽部」「少年」「少年画報」があった。
どの本にも看板の漫画作品が一つ二つあった。
最初のころは、付録は漫画本が2~3冊つく程度だったが、次第に付録を競うようになって十大ふろく、十五大ふろくとなっていった。
年に3回くらい親が買ってくれた。
その頃の子供は、同じ漫画(読んだ漫画を)50回、100回と繰り返し読んでいた。それでも飽きなかった。
おまけ
グリコキャラメルは「おまけつきグリコ」、使えないオモチャがおまけだった。
ハリスチューインガムを買うと、たまに「当り」があり、もう一つもらえた。
カバヤキャラメルは「カバヤ文庫」で一時代を残した。
日の丸キャラメルは券を集めると、何かもらえたが、「何か」を思い出せない。
懸賞
家で近所の子と遊んでいたとき、郵便屋さんが来て小包を渡した。
子供あてになっていて、みんなの目の前で、全員注目のうちに箱を開けた。
すると(漫画王だったと思うが)雑誌の懸賞の三等賞に当たりました、という紙と共に、更に小さな箱が出た。
箱はトランプだった。
そのトランプは10年間ほど使った。
懸賞に応募するにはクイズの正解を求められた。
ある時「野球少年」は選手名を書かなければいけないが、誰かわからない。
困っていると、野球大好きなおじさんがいるいのを思い出した。
宮の端で三角野球をしてると、野球好きなおじさんが来た。
おじさんに雑誌の写真を見せると、即答があった。
「これは別所毅彦じゃ」
さすがにおじさんと思った。
今のようにテレビや映像がある訳でなく、新聞のスポーツ蘭は全スポーツで半ページ程度の時代に、なかなか即答はむずかしい。
街頭テレビ
力道山のシャープ兄弟や木村正彦とのプロレスを、国民は熱狂しながら街頭テレビを見ていた・・・ことになっているが。
部分的な事実だが、真実ではない。
いったい何処のどこであった話だろう?
すくなくとも、笠岡や福山や倉敷では、無かった。
中国地方で可能性があるとすれば広島市と岡山市程度。
おそらく映画館のニュースで何秒間か見たのが現実であって、
街頭テレビで昂奮したのは国民のパーセント以下の数であろう。
に出てくるものを自分の経験範囲で書き残す。
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ちゃぶだい
ちゃぶ台の定義は知らないが、円形か四角形のテーブルはあった。
家族7人が揃って食べるということは、ほとんどなかった。
親は食べる事よりも仕事が大事で、(仕事が好きというのでなく、稼ぎのため)
落ち着いて食事をするのは年に数度のことだった。
食事の前後は、蚊やハエを防ぐ網傘をテーブルに置いていた。
トースター
冷蔵庫
洗濯機
テレビ
トースターは高校卒業してから
冷蔵庫は高校の2年生の頃だった。
洗濯機、中一か中二の時に買った。
テレビは中二の時だった。
大好きな相撲を見ようと思ったら、大ファンの若乃花が引退し一度も家で見れなかった。
縁台
夏の夜は、縁台を庭に出していた。
夕方は、蝙蝠が飛ぶのを眺め、
暗くなると、天の川を眺めていた。
時折、流れ星が落ちていた。
たまに、花火をしていた。
夏休みの好きな時間だった。
扇風機、エアコン
なかった。
田舎の農家に、
そんなものは必要がなかった。
蚊帳
蚊帳の中に入るのは、
夏の夜の寝る前の楽しみだった。
火鉢
火鉢は10個くらいはあった。
陶器や金属。
普段用と来客用。
その頃、
集会所や公会堂はなく、各家での輪番制で寄り合いをしていた。
ふすまを外して大広間、座布団、灰皿、火鉢は必需品だった。
金属は装飾品を兼ねるのもあった。
会合が終わると、飲めや歌えの時があり
茂平の飲み会は、終了無制限でつづいていた。
まあワヤだった。
でもこれ以上ない平和の時代だった。
練炭、堅炭、豆たん、消し炭、たどん
メインは消し炭だった。唯一無料のもの。
練炭は干しイチジク用のウムシに使っていた。
堅炭は、来客時に火鉢と、ふだんの七輪の料理に使っていた。
豆炭は、炬燵や、その後の豆タンあんかに使った。
たどんは何に使っていたかな?
煙管
祖父は人生キザミたばこ、いっぽん。
キザミを手にして
指で煙管に詰めていた。
火をつけて、ふぉ~~と、吸うような、吐くようなタバコだった。
晩年には茂平の最後のキザミの人となり、
吉本商店が、祖父一人のためにキザミを仕入れてくれていたという。
祖父は昭和60年くらいまでタバコを吸っていた。
煙草盆
祖父は、家で吸うとき煙草盆を身の前にもってきて吸っていた。
父のタバコは両切りタバコで、
昭和40年代になってフィルター付きのタバコに変えた。
ミシン(足踏み)
母は嫁入り道具にミシンを持ってきたことを自慢していた。
そのことは子供でも管理人にしか言わなかった。
管理人もまた、だれ一人母の自慢を話さなかった。
人様に自慢できる話でなことは母もわかっているが、自己満足だけではさみしかったのであろう。
母はミシンを大切に使った。
”織物ができなければ嫁にいけない”時代は過ぎていたが、
裁縫、縫物は大切な嫁入り条件だった。
最晩年の母は、毛糸でタワシを編んでデイサービスの仲間に配って喜んでもらうのを楽しみにしていた。
鏝(こて)
火鉢には鏝が入っていた。
こてはアイロン代わりに使っていた。
電信柱・枕木
クレオソートが塗られた丸太や各材。
裸電球
時々、フィラメントが切れた。
取り替えるのは子供の役目。
電球は、
♪お花になった・・・とんとん東芝の~マツダランプ、
電話
用之江の農協に1台あった。
城見小学校にはなかったような。
アッパッパ
祖母の夏服だった。
もんぺ
母の日常着。ふだんぎ。年中、朝昼晩がもんぺ。
日向ぼっこ
冬の寒い日、庭のいちばん日当たりのよい場所。
そこで老人が日向ぼっこをしていた。
猫といっしょで、ほとんど動かない。
年齢は80才を越えた人。
その当時の80才は、今で言えば95才位に相当する。
イガグリくん、おかっぱ
男の子は坊主頭。人気漫画に「イガグリくん」があり、イガグリ頭とも言っていた。
女の子はおかっぱ。三つ編は小学生にはいなかった。
男は家で刈っていたが、女の子は床屋か理容院に行っていたようだ。
蝉とり
蝉取りは道具は、
母が切れ端の布で作った袋を番線(はりがね)に通して竹竿の先に付けたもの。
竹竿の先の番線にクモの巣を付けたもの。
素手(手のひら)。
このうち、クモの巣が多かった。
良いクモの巣を探して歩くのが、すでに一つの遊びだった。
にいにい蝉に始まり、あぶら蝉、大きなクマゼミが出てくるころは、近所で誰が最初に取るか気になっていた。
遊び95%、残りの5%は「昆虫採集」がたまにあった。
トンボとり
トンボは近寄っても逃げないので、人差し指をぐるぐるしてつかまえようとするが、取ったためしがない。
ヤンマを捕まえると自慢になっていた。
ローラースケート、ホッピング
なし。
少年雑誌
男の子は「冒険王」「漫画王」「痛快ブック」「野球少年」「少年倶楽部」「少年」「少年画報」があった。
どの本にも看板の漫画作品が一つ二つあった。
最初のころは、付録は漫画本が2~3冊つく程度だったが、次第に付録を競うようになって十大ふろく、十五大ふろくとなっていった。
年に3回くらい親が買ってくれた。
その頃の子供は、同じ漫画(読んだ漫画を)50回、100回と繰り返し読んでいた。それでも飽きなかった。
おまけ
グリコキャラメルは「おまけつきグリコ」、使えないオモチャがおまけだった。
ハリスチューインガムを買うと、たまに「当り」があり、もう一つもらえた。
カバヤキャラメルは「カバヤ文庫」で一時代を残した。
日の丸キャラメルは券を集めると、何かもらえたが、「何か」を思い出せない。
懸賞
家で近所の子と遊んでいたとき、郵便屋さんが来て小包を渡した。
子供あてになっていて、みんなの目の前で、全員注目のうちに箱を開けた。
すると(漫画王だったと思うが)雑誌の懸賞の三等賞に当たりました、という紙と共に、更に小さな箱が出た。
箱はトランプだった。
そのトランプは10年間ほど使った。
懸賞に応募するにはクイズの正解を求められた。
ある時「野球少年」は選手名を書かなければいけないが、誰かわからない。
困っていると、野球大好きなおじさんがいるいのを思い出した。
宮の端で三角野球をしてると、野球好きなおじさんが来た。
おじさんに雑誌の写真を見せると、即答があった。
「これは別所毅彦じゃ」
さすがにおじさんと思った。
今のようにテレビや映像がある訳でなく、新聞のスポーツ蘭は全スポーツで半ページ程度の時代に、なかなか即答はむずかしい。
街頭テレビ
力道山のシャープ兄弟や木村正彦とのプロレスを、国民は熱狂しながら街頭テレビを見ていた・・・ことになっているが。
部分的な事実だが、真実ではない。
いったい何処のどこであった話だろう?
すくなくとも、笠岡や福山や倉敷では、無かった。
中国地方で可能性があるとすれば広島市と岡山市程度。
おそらく映画館のニュースで何秒間か見たのが現実であって、
街頭テレビで昂奮したのは国民のパーセント以下の数であろう。