「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。
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8月18日、ワシレフスキー総司令官は、
「8月19日から9月1日までに釧路市から留萌市に至る線より北の北海道半分、千島列島南部を占領すること」を命令した。
ソ連軍は、これらの島々の敵がどれだけの兵力や陣地を持ち、好適な楊陸地がどこか知らず、正確な地図も持っていなかった。
8月22日、
スターリンはトルーマンが拒否した北海道占領を諦め、トルーマンに返書を送った。
ソ連軍は択捉・国後に上陸しなかった。
「択捉・国後はアメリカ軍がやってくるはずだ」
ソ連軍の前線の認識では、南千島はソ連軍の占領すべき範囲でなく、極めて慎重だったことがわかる。
8月28日、択捉島に上陸。
9月1日、国後島に上陸。
9月4日、歯舞諸島に到着。
9月4日、札幌と千島・樺太の交信は途絶えた。日本側に状況がわからなくなる。
ソ連は、千島南部で20.000人。千島全部で50.000人を樺太経由でシベリアに移送した。
一般住民はヤルタ協定など知らず、占領は一時的と思っていた。しかし将来への不安から北海道へ脱出した。
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8月18日、ワシレフスキー総司令官は、
「8月19日から9月1日までに釧路市から留萌市に至る線より北の北海道半分、千島列島南部を占領すること」を命令した。
ソ連軍は、これらの島々の敵がどれだけの兵力や陣地を持ち、好適な楊陸地がどこか知らず、正確な地図も持っていなかった。
8月22日、
スターリンはトルーマンが拒否した北海道占領を諦め、トルーマンに返書を送った。
ソ連軍は択捉・国後に上陸しなかった。
「択捉・国後はアメリカ軍がやってくるはずだ」
ソ連軍の前線の認識では、南千島はソ連軍の占領すべき範囲でなく、極めて慎重だったことがわかる。
8月28日、択捉島に上陸。
9月1日、国後島に上陸。
9月4日、歯舞諸島に到着。
9月4日、札幌と千島・樺太の交信は途絶えた。日本側に状況がわからなくなる。
ソ連は、千島南部で20.000人。千島全部で50.000人を樺太経由でシベリアに移送した。
一般住民はヤルタ協定など知らず、占領は一時的と思っていた。しかし将来への不安から北海道へ脱出した。