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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

天皇制の内なる危機(一夫一婦制)

2020年06月26日 | 大正
令和天皇に子がいるが、女子で天皇を継承できない。

明治天皇も大正天皇も側室の子だった。
令和天皇には側室は不可能であるから、実子(愛子内親王)が継ぐのが普通だと思うし、
それがグローバルスタンダートとも思う。

21世紀の世に、子がいて継承できない制度が存在するのは日本の皇室典範くらいであろう。

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「日本の歴史14巻 いのちと日本帝国」 小松裕著 小学館 2009年発行


皇太子裕仁(のちの昭和天皇)は、1921年のヨーロッパ外遊でイギリスやオランダなどの皇室のありように、大きな影響を受けて帰ってきた。
皇太子は女官制度の改革に取り組む。
生まれた子供は里子に出さず自分の手もとで育てたい、一夫一婦制への強い意思があった。

天皇家が一夫一婦制を採用することになると、当然後継ぎの問題が出てくる。
①男子が生まれる
②女子しか生まれない
③どちらも生まれない
という三つの可能性しか存在しない。
男子が生まれるかどうかは偶然でしかない。
そのために皇室典範には、「庶子」の皇位継承について定められていた。
つまり、天皇が側室を置けるようにしていたのである。


実質的には大正天皇も一夫一婦制を実行していたが、皇后との間に男児が4人生まれ危機は浮上しなかった。

ところが、
皇太子は第四子まで女児だったのである。
皇室の近代化が皇位継承の危機を招いたのである。
不安はピークに達し、周囲はざわめきはじめた。
1933年昭仁親王(平成天皇)が生まれ危機は脱した。


こうして②③のケースにどのように対応するかという問題は先送りされ、現在に至っている。


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明治45年7月29日から大正元年7月30日へ

2020年06月26日 | 大正
「大正時代」 永沢道雄著 光人社 2005年発行 より転記

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明治天皇は明治45年(1912)7月29日、午後10時43分、永眠した。59歳。
死去は2時間ずらして、30日午前0時43分と発表された。
30日、嘉仁親王は第123代の皇位に就いた。31歳。

明宮(はるのみや)嘉仁親王、のちの大正天皇は明治天皇の第三皇子で、明治12年生まれ。
生母は柳原愛子。
正妻の美子皇后(昭憲皇太后)は子宝に恵まれなかった。
明治天皇は五人の側室により15人の皇子、皇女をもうけた。
しかし成人に達した皇子は嘉仁親王ただ一人で、10歳で皇太子となった。
男子5人のうち4人が夭折し、女子は10人のうち4人しか成人しなかった。

9月13日明治天皇の葬儀がおこなわれた。
この日乃木希典が夫人とともに殉死した。


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黒塗り教科書②川口小百年

2020年06月26日 | 昭和20年(戦後)
「川口小学校百年史」川口小学校 正文社 昭和63年発行 より転記



G・H・Q指令

全国で昭和22年12月末に4.340人の教職員が不適格者として追放された。
神道に関しては、神社参拝、祭式、鳥居の教材などすべてが禁止された。
教科書は、
終身・歴史・地理の授業即停止、教科書の廃棄。
更に、国語・算数などの教科書の不適当な箇所を示して、教育現場の各学校に、削除あるいは修正を命じた。
そこで児童は、その示されたヶ所を墨で塗って使用した。
これが所謂「黒塗り教科書」である。

削除修正例
削除 海軍のにいさん・菊の花・神だな・にいさんの入営・金しくんしょう・支那の子ども
修正 センチノニイサン→ニイサン オクニノタメニシッカリ→シッカリ


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戦後の大津野・・・「ふる里のあゆみ」②

2020年06月26日 | 昭和21年~25年
「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行


昭和20年8月15日
終戦
隊内にありし御真影、軍人勅語其の他貴重な書類全部を焼棄せり。
昭和20年11月1日
米軍先遣隊10名飛行場に来る。翌2日、1.200名来り駐屯す。

かつての大津野は、田が1300ヘクタール、畑が1900ヘクタールで農家平均耕作面積は50アールという零細農家であった。
作付品目は全く多彩であった。
除虫菊、
はっか、
麦はヤハズを多く実を取るほかに、麦稈を硫黄で漂白乾燥して麦稈真田を副業とする家庭がほとんどで、
戦前は小学校で講習、競技会がもたれた。
葉たばこの栽培も盛んで枢要な収入源。盛夏に、中一致団結して全家族があたった。
甘藷、馬鈴薯の生産も盛んで特に、甘藷は戦後の食糧難時代貢献したものである。
特産物としては大津野大根の沢庵漬があり、福山、尾道、呉、広島へも出荷していた。
果樹の先進地茂平に隣接していることもありて、ぶどう、桃、戦後は夏柑、温州等蜜柑も導入された。


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