令和天皇に子がいるが、女子で天皇を継承できない。
明治天皇も大正天皇も側室の子だった。
令和天皇には側室は不可能であるから、実子(愛子内親王)が継ぐのが普通だと思うし、
それがグローバルスタンダートとも思う。
21世紀の世に、子がいて継承できない制度が存在するのは日本の皇室典範くらいであろう。
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「日本の歴史14巻 いのちと日本帝国」 小松裕著 小学館 2009年発行
皇太子裕仁(のちの昭和天皇)は、1921年のヨーロッパ外遊でイギリスやオランダなどの皇室のありように、大きな影響を受けて帰ってきた。
皇太子は女官制度の改革に取り組む。
生まれた子供は里子に出さず自分の手もとで育てたい、一夫一婦制への強い意思があった。
天皇家が一夫一婦制を採用することになると、当然後継ぎの問題が出てくる。
①男子が生まれる
②女子しか生まれない
③どちらも生まれない
という三つの可能性しか存在しない。
男子が生まれるかどうかは偶然でしかない。
そのために皇室典範には、「庶子」の皇位継承について定められていた。
つまり、天皇が側室を置けるようにしていたのである。
実質的には大正天皇も一夫一婦制を実行していたが、皇后との間に男児が4人生まれ危機は浮上しなかった。
ところが、
皇太子は第四子まで女児だったのである。
皇室の近代化が皇位継承の危機を招いたのである。
不安はピークに達し、周囲はざわめきはじめた。
1933年昭仁親王(平成天皇)が生まれ危機は脱した。
こうして②③のケースにどのように対応するかという問題は先送りされ、現在に至っている。
明治天皇も大正天皇も側室の子だった。
令和天皇には側室は不可能であるから、実子(愛子内親王)が継ぐのが普通だと思うし、
それがグローバルスタンダートとも思う。
21世紀の世に、子がいて継承できない制度が存在するのは日本の皇室典範くらいであろう。
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「日本の歴史14巻 いのちと日本帝国」 小松裕著 小学館 2009年発行
皇太子裕仁(のちの昭和天皇)は、1921年のヨーロッパ外遊でイギリスやオランダなどの皇室のありように、大きな影響を受けて帰ってきた。
皇太子は女官制度の改革に取り組む。
生まれた子供は里子に出さず自分の手もとで育てたい、一夫一婦制への強い意思があった。
天皇家が一夫一婦制を採用することになると、当然後継ぎの問題が出てくる。
①男子が生まれる
②女子しか生まれない
③どちらも生まれない
という三つの可能性しか存在しない。
男子が生まれるかどうかは偶然でしかない。
そのために皇室典範には、「庶子」の皇位継承について定められていた。
つまり、天皇が側室を置けるようにしていたのである。
実質的には大正天皇も一夫一婦制を実行していたが、皇后との間に男児が4人生まれ危機は浮上しなかった。
ところが、
皇太子は第四子まで女児だったのである。
皇室の近代化が皇位継承の危機を招いたのである。
不安はピークに達し、周囲はざわめきはじめた。
1933年昭仁親王(平成天皇)が生まれ危機は脱した。
こうして②③のケースにどのように対応するかという問題は先送りされ、現在に至っている。