しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大門駅の貨物

2020年06月14日 | 昭和36年~40年
大門駅は切符を買う窓口の隣に、貨物を取りあつかう窓口が並んでいた。
それは切符を買う人限定で、”チッキ”と呼ばれ、切符の行先まで荷物を受け付けてくれた。
自分の記憶では、
高校卒業時に荷物を大門駅のチッキで送ったような気がする。

”貨物”と呼ばれる荷物は昭和38年に廃止されている。


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「大津野のあゆみ」平成15年 ぎょうせい発行 より転記


大門駅

明治30年、郷頭山の麓に大門停車場が完成。
大正12年、複線化。駅舎も拡張。客駅舎17坪、貨物倉18坪、駅長、助役の官舎も新築された。
昭和3年から、井笠バスが大門駅より海水浴客を運んだ。
昭和6年の満州事変、以降15年間の戦争で大門駅から多くの若者が出征していった。
第二次世界大戦では大門航空隊が爆撃、機銃掃射を受けたが幸いに鉄道には損害を受けなかった。
昭和33年、国道2号線が新しく開設され、トラックと競合するようになり、
昭和38年10月13日で貨物の取り扱い及び配達の取り扱いが廃止された。
昭和36年、岡山~三原間が電化された。
平成7年、南北連絡通路工事が始まる。


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青訓(大正)~青年学校(昭和10)~青年学校(昭和14)

2020年06月14日 | 昭和16年~19年
「久世町史」より転記

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青年訓練所
大正15年、陸軍省の協力のもとにお青年訓練所が公布された。
満16歳から20歳の4年間、とくに実習学校学校修了者を対象に補習教育・職業教育・公民教育および軍事訓練を課すものであった。
尋常小卒は800時間、高小卒は700時間を課せられた。
久世町青訓は、
毎月5~1日実施し、年間30日~38日であった。

青年学校(昭和10年公布)
昭和10年4月1日、青年学校が公布された。
本科(男子5年、女子3年)では、
1.2年生が月水金昼間4時間。
3.4.5年生が水曜昼7時間。

青年学校(昭和14年改正)
男子青年学校の義務制が実施された。
普通科1年生から毎年一学年ずつを義務制とし、昭和20年度をもって本科5年の義務教育を完了することになった。
本科1.2年は月水金昼間6時間と一日2時間増えた。

(青年学校には普通科があるが、高等科への進学率が100%に近く、記載しない)

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戦後の食糧問題

2020年06月14日 | 昭和21年~25年
岡山県中央町誌(民俗編)より転記する。

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戦後の食糧問題

国は、供出だけ強制しても、食糧問題は解決できず、このため開墾と食糧増産を呼びかけた。

もはや開墾できる所はほとんどなく、学校の運動場、公共の広場を見出し、村中総動員で鍬を入れ、サツマイモ、じゃがいもなどを植えた。
それだけにとどまらず、それまで普通の食糧として利用されていなかった、いわゆる未利用食糧である、
わらび、ぜんまい、山ふき、よもぎ、甘藷の蔓、里芋の茎、大根葉、葛根などを採取し、乾燥させた物を供出する運動が始まった。
これらの作業は、農業会、学校、婦人会などに求められ、小学生まで動員された。

昭和18年からスイカ、キュウリ、いちごなどは、贅沢品として作付け禁止になった。
横流しやヤミ売りなどの違反に対しては警察などによる厳しい取り締まりが行われた。
昭和20年の敗戦の年は、労働力、肥料の極端な不足と9月10月の二度の風水害で、米作は大減収になり、
敗戦の人心の荒廃で供出私欲も低下、供出の完納には遠く及ばなかった。
県は、くず米、大豆、雑穀、甘藷などの代替品供出を認めた。
農家でありながら配給を受けなければならない家も続出した。

戦争末期、終戦後は
津山線は買い出し列車と言われるほど、食料を求めて、子どもを背負い、木口の袋を持ち、身体に袋を巻き付けてた女性たちが農村に殺到した。
少しばかりの品物を持ち、各駅から農家の庭先に来ては、持参した品物と米麦やイモ、くず米など食べられるものならなんでもよいから交換してくれといい、一日に何人もきた。
農家にも、交換するものに困ったという。

昭和23年ごろになると農村にも米麦に多少のゆとりができ、都市部に商品が出回るようになった。





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