しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

最後の日ソ戦・・・その3・占守島の戦闘

2020年06月15日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。

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実は、日本軍守備隊は、ソ連軍上陸船団を17日に見つけていた。
「カムチャッカ半島北方に、小型舟艇多数が移動してる」という報告が、国端崎監視所から師団司令部にもたらされた。
しかし、師団長や幕僚は北千島は米軍であってもソ連とはまったく関係ないと信じ、ソ連軍が上陸作戦を行うとは疑ってもみなかった。

占守島北部を守る歩兵282大隊長村上少佐は、17日師団司令部において、
師団長から「終戦になったのだから軽挙妄動してはならぬ。お前のところは最前線だから、軍使をまっさきに迎えることになるかもしれぬ。
その時は、紛争を起こさず司令部に連絡せよ」といわれていた。

1時半過ぎ、ロパトカ岬から砲撃が再開され、村上大隊の将兵の夢を破った。
「軍使が夜中に来ることはない、これは危ない」
「全員配置につけ」と命令した。
「射撃開始」を命じた。

海岸配備部隊は、2時半ごろ上陸する敵を発見し、
応戦を開始した。
まだ薄暗く霧は深かったが、霧中射撃の訓練を積んだ成果が現れた。
国端崎の野砲、
小泊崎の速射砲、
大隊砲は竹田浜両側から激烈な砲火を浴びせた。

9時にようやく第一陣が上陸した。
村上大隊長は四嶺山陣地に入って歩兵73旅団司令部に無線を打つと、旅団全力を挙げて応援に行くという返事があった。

幌筵島柏原にあった堤師団長に対する第一報は、占守島西部の千歳にいた歩兵第73旅団長の杉野巌少将の報告である。
「敵は早暁2時ごろ、艦砲支援のもとに竹田浜一帯に上陸開始、目下激戦中、敵の国籍不明」
水野師団参謀は、国籍不明と言っても米軍だと思ったという。
15日を過ぎても平静であったあったのに、3日後に襲撃してくるとは常識では考えられない。
しかも時間が時間である、何千人という兵力でロパトカ岬から支援射撃もやっている。
こんな軍使の到来があるわけがない、が師団の判断となった。

堤師団長は2時10分、全兵団に戦闘開始準備を下命。
2時30分、戦車11連隊長池田末男大佐に対し国端崎方面に急進して敵を撃破するよう命令した。
同時に、73旅団長杉野少将に、できる限りの兵力を集結して敵を撃滅するよう命令した。

杉野旅団長は、ソ連撃滅の師団命令を受領すると、大隊へ命じた旅団要旨は(午前9時)
一・師団は自衛のためソ連軍を海岸に圧迫撃滅す
二・旅団は全力をもって国端崎付近に急進し、敵を水際に撃滅せんとす
三・各隊は部隊の集結完了を待つことなく逐次同地に前進すべし

午後に入り、杉野旅団長は大観台に進出。
次いで柏原から歩兵74旅団の橋口少佐の大隊も到着し指揮下に入った。
かくして村上大隊を含め五個大隊での展開が完了しつつあった。

次いで正午ごろ、74旅団山田少佐の大隊が夕刻海峡を渡り。
吉田少佐の大隊も転進命令が発せられ、夜占守島へ渡った。

かくして、大91師団の主力が占守島に進出し、両旅団を並列して一大攻勢に転ずる準備が進捗した。

ところが、準備が動き始めた昼頃
「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行すべし」という第5方面軍命令が届いた。
「一切の戦闘行動停止、やむを得ない自衛行動を妨げず、その完全徹底を18日16時とする」
という方面軍の命令の確認であった。


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最後の日ソ戦・・・その2・米ソ関係

2020年06月15日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。

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1945年2月のヤルタ協定において、
ソ連の対日参戦の見返りとして千島列島全部がソ連に引き渡されることになっていた。
その後も米軍は艦隊や航空部隊に千島攻撃を反復し、潜水艦はオホーツク海まで進入した。

1945年7月のポツダム会談時の米ソの作戦境界に関する協議で、
オホーツク海は米ソの共同作戦区域、
千島は第四海峡(幌筵島の南の海峡)を米ソの作戦境界で合意していた。海峡の北をソ連、南を米軍。

1945年8月16日、スターリンはトルーマンに
「千島列島すべて、さらに釧路市と留萌市を結ぶ線以北をソ連降伏地域に含める」要求をした。
スターリンは18日に、
「千島の合意」と「北海道北部の拒否」と「中千島へ米軍基地を設ける」回答と要求を受けた。
スターリンはトルーマンへの返事も出さず、樺太・千島・北北海道の作戦準備を並行して行なった。


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青年団・処女会

2020年06月15日 | 昭和16年~19年
「大津野のあゆみ」平成15年 ぎょうせい発行 より転記

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青年団・処女会


「大津野男子青年団」が創立されるのは明治30年4月であり、翌年「大津野女子青年団」が成立している。
軍国主義の台頭で青年団が官・軍との関係が緊密となり、行政の指導が加わり、自律性が失われていった。

大津野女子青年団は「処女会」とも呼ばれ、全国に先駆けて結成された。
小学校校長を会長とし、指導は小学校の女子教員が当たっていた。
活動内容は補習教育、雑誌回覧、見学旅行、展覧会など女子教育を目的としたものが多い。
男子青年団とともに行う活動はなく、時勢順応を目的とした。

第一次世界大戦後、青年団は国の方針や行政と密接な関係を持つようになった。

戦前の大津野青年団
郡下まれにみる勤勉で模範的な青年団といわれた。
女子は一人残らず入団し、毎月一回は「修養の栞(しおり)」をもって小学校に集合し、
心の修養と共に良妻賢母の道を教えられた。
上の坊住職、校長、青年学校教諭などが指導に当たった。
修養会は男子は、役場の二階に集まり、女子は満月の夜小学校へ集まった。
裁縫室で読書会をしたり、校庭ではなぎなたを行った。

戦時大戦中の青年団
昭和16年に文部省は統制に乗り出し、非常時局に際し町村青年団を改組し、国防本意の青年団とすべく訓令を出し、
文部大臣の統制下においた。
大日本青少年団長は文部大臣、
県の青少年団長は知事、
行政単位は首長が担当した。
大津野村では小学校高等科を卒業した者は青年学校の生徒、
すなわち、青年団員として皇国青年の道を歩むのである。
一切の自由や民主主義的傾向が排除されて軍事一色の精神教育、軍事訓練、軍役奉仕が活動の中心になった。
女子青年は、
出征兵士の送迎や慰問、出征家族の農作業奉仕、一週間交替で広島の兵器廠へ動員された。


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婦人会
昭和初期の婦人会は満州事変勃発とともに、
陸海軍省、内務省に文部省も加わって、国家権力をあげて全国的な婦人組織化が進められた。
こうして生まれたのがエプロンにたすき掛けの大日本国防婦人会である。
農繁期託児所の開設、出征軍人の見送り、村社への必勝祈願、国防貯金の奨励などであった。


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警防団
日中事変が本格化し、多くの若者が軍隊に召集されていった。
昭和14年6月、
警防団令が公布され、
市町村を単位として国内の防衛、天災、火災などに対応する警防団が設置された。


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