しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満蒙開拓団①阜新芳井開拓団

2020年06月21日 | 昭和11年~15年
「満洲開拓回顧誌」小谷鉄雄編集 ぎょうせい 平成3年発行 より転記。



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満洲開拓は、五族協和の旗のもと大東亜共栄圏の建設を実現するための、不可欠の大事業といわれた。
昭和7年を第一次とし、
昭和20年の第十四次をもって終末を告げた。

皇国農村に指定された芳井町では、耕地面積も狭隘(きょうあい)であり、次男・三男対策の意義もあって、
町役場・農会などの合議によって、
満洲開拓は急に実現の方向に向かって団員募集が行われた。
開拓者共通の悩みは、
健康の管理、子弟の教育、開拓地の開発、現地に即した営農。
私どもの入植地はすべて既耕地であった。
平穏な暮らしであったが、今にして思うと農地の侵略によって入植した。

阜新芳井開拓団の先遣隊が阜新に到着したのは、」昭和19年2月8日夕であった。
終戦までの一年有半、その短い期間の開拓事業であった。
第十三次芳井開拓団は、岡山県後月郡芳井町の分村開拓団で、
炭都阜新に対する新鮮野菜、その他食料品の供給を主目的とした開拓団であった。

各戸5町歩、各組20町歩の共同経営をする。
農具は現地産で馬耕によった。
主食は満拓公社から送られてきた。
焼酎・砂糖・衣類・煙草等、内地ではないものが豊富で、うれしいやらありがたいやらの連続であった。



終戦後の日本人には個人の生活はなく、各々団体ごとに収容所にまとめられた。
戦争が終わって敗者として取り扱われる。
数日後のこと、数百人の現地人が襲撃した。大きな襲撃は一度で終わった。
栄養不良等でつぎつぎに死者が出た。

許された携行品は、
身の回りの衣類、お金は一人千円まで、若干の食料品で、
印刷物、書類は原則持ち帰りができなかった。

昭和21年6月2日、200%の満員列車で笠岡駅に着いた。
芳井小学校で藤井円太郎町長はじめ、町役場各種団体、家族親類の方たち、
国防婦人会では白米のおにぎり、お茶漬け・梅干と用意していただいた。久方ぶりのご馳走であった。

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