しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

新入社員時代②呉の生活  あこがれの”山口果林”が呉に来る

2020年06月03日 | 昭和41年~50年
NHKの「繭子ひとり」、あこがれの”山口果林”が呉に来る

P社に入社した時、東京に配属されたかった。
それは、東京には「山口果林」がいるから。
NHKの連続テレビ小説「繭子ひとり」の主演・山口果林は週刊誌の表紙やグラビアで見ない日は無いほどブームになった。
東京にはあんなきれいな人が住んでいるのか、とあこがれていた。
その「繭子ひとり」の撮影のため、山口果林が呉に来た。
撮影を見に行きたいけど、まだ新入社員で”休む”ことは、とてもできない。
同じ呉の空の下にいることに満足するしか仕方なかった。
撮影は呉の市街地でなく、倉橋島の方であった。


・・・・・・・・・

オーリングブーム

その年は、空前のボーリングブームだった。
テレビでは「さわやか律子さん」が人気だった。
P社に限っても、呉事務所の管轄内で3か所工事中だった。
ボーリングのローラーの装置は大福機工という会社の独断場で、天下だった。
その会社の据え付け日を厳守しないと、多忙で、次はない、という状況だった。
無事、大福機工が済む頃、新聞に「○○ボールxx月xx日オープン」と宣伝記事が掲載される。
それから毎日のように女子社員をオープン前のボーリング場に派遣していた。
それは、いきなりオープンするより、いくらか玉を滑らしておくのが良いそうだ。
毎日女子社員は仕事で、無料の、新品のボーリング場を楽しんでいた。


・・・・・・・・・

”浅間山荘事件”、まるいちにちテレビの見放題

赤軍派が人質を取って立て籠もる浅間山荘に、警察が突入する日。
その日、会社のテレビはスイッチがオフになることは無かった。
仕事をするのは女子社員だけ、男子社員はテレビにくぎ付けだった。
テレビを見ながら、
そのうち突入するだろう、終わるだろうと思っていたら、そのまま一日かかった。
仕事日でありながら、一日テレビを見てすごす日となった。
テレビの最高視聴率は90%になったと言われている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

P社の「昭和46年入社」

2020年06月03日 | 昭和41年~50年
新入社員は450名くらいいた。
昭和46年4月1日、
入社式は広島市の国際ホテルであった。
P社は翌年から東京で入社式を行ったので、最後の広島での入社式だった。
翌日から江田島の研修所で新人訓練があった。
江田島と言えば、海兵や海軍を連想さすが、普通の訓練所だった。
その施設には日本ホイストなど他社も同時に行っていた。

・・・・・

中国支店に配属された

2週間の江田島での教育期間が終わり、中国支店に配属になった。
そこでも2週間ほどで、「呉事務所」へ、最初の転勤があった。
GWがあり、それが終わると呉に行くことなった。

・・・・・

GWに初めて天皇・皇后を見た。

両陛下が会社の隣にある広島グランドホテルに到着した。
GW中その後に、一度実家に帰った
その時に祖母に天皇皇后を見たことを言った。
その訳は、
家には天皇皇后の写真を掲げていた。
祖母はそれを見ながら、
「戦争が終わった時、この写真を隠した」
その話を何度も聞いていた。
写真保持だけで逮捕されたりする(噂の)時代があった。

・・・・・

初めて仕事がまわってきた

女性社員や上司の仕事を見るだけだったが、
上司から初めて仕事を言われた。
その仕事とは・・・・、
葉書に宛先を書くことだった。
参議院議員に永野鎮雄(ちんゆう)さんという先生がいて、その人の
暑中見舞状を書く、選挙運動だった。
鎮雄さんは
当時、会社の会長の実弟で「永野七兄弟」として有名な兄弟だった。

・・・・・


日新製鋼の現場事務所に配置された

日新の現場には有能なMさんがおられ、そこで勉強せよ、という含みで日新製鋼に行くことになった。
日本鋼管福山製鉄所には何度も入ったことがあるので、日新の製鉄所とは比べてしまう。
規模も製鉄現場もなんとなく暗い感じを受けた。
しかし毎日元気いっぱいに日新製鋼へバスで通った。

・・・・・

社会人になって、初めて褒められた

日新の現場には12~13人の社員がいた。
仕事が終わると、冷蔵庫からビールを出して飲んで帰るのが日課だった。
たいてい午後6時前後、
毎日のことで、あたりまえのことのように飲んでいたら、
20も30才も上の先輩から、
「○○(私のこと)はうまそうに呑むのう」
これが入社以来最初の褒めことばだった。
その後、会社生活で褒められたことは記憶にない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争とは歩くこと・・・・

2020年06月03日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
父と同じ歩兵10連隊の記事があるので転記する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

「一億人の昭和史・日本の戦史4」1978年 毎日新聞発行より
棗田博(作家)


塘沽に上陸した。
初めて実包(実弾のこと)が支給された。
合計120発、ずしりと重い。
被覆もすべて新品、背嚢(はいのう)も新品である。

雑嚢と水筒、手榴弾3発と三八歩兵銃。
通常、完全軍装はおよそ8巻目といわれていた。

行軍にはいって、しばらくの間、陽気にしゃべっていた兵隊も、もう今はだれ一人ものを言う者はいない。
汗は出尽くすと、もうまっきりでなくなり、手のひらを顔に当てるとざらざら浮いている。
肩は背嚢の負い革と銃の重みで感覚をなくしていく。
「小休止」の命令が待ち遠しい。

やがてわかってきた。
行く手に銃砲声が聞こえると、カンフル注射でも打たれたように、へとへとの身体が緊張してしゃんとなる。
足取りが早くなり、駆け足もできる。

野砲の弾道の下を前進するとき、一種の酩酊状態のような極度の昂奮のみがある。
恐怖の心理など入り込む余地はない。

内地では、命令がない限り、襟のホックや上着のボタンなど勝手にはずすことは許されないが、戦地では勝ってであった。
銃の「替え銃」も、戦地ではてんでんばらばらに替え銃をする。

眼を楽しませる変化のない風景は行軍を単調なものにし、足取りを重くする。
行軍の影響は季節により違う。
夏が最もつらい。
日射病で倒れるものが続出した。死亡する者もあった。
秋は、防寒帽と防寒胴衣が支給された。

夜行軍はやりきれない。
「落伍せず、命がけで睡魔と戦え」
歩きながら眠れるし、夢まで見れるのである。
二日目三日目になると、転落兵が続出した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする