しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

小学生の食べ物

2020年06月06日 | 城見小・他校
「昭和こども図鑑」奥成達著 2001年ポプラ社発行には、
下記の食べ物が出てくる。
それを自分の城見小学校時代と重ねてみる。

【重なるもの】と【重ならない】ものがある。


・・・・・・・・・・・

【重なるもの】

コッペパン
ごはん給食はなかった。
給食ではパンだった。
このパンを”コッペパン”と呼んでいた。
ふつうパンは、かじって食べていたが、学校ではちぎってから食べていた。
断面に人造バターを塗ったり、汁に漬けてから食べていた。
もちろん、学校給食でパンに限らないが、残したことは一度もない。


脱脂粉乳
バケツに入った牛乳を先生が一人いっぱいづつ、金属の容器に注いでくれた。
(途中から生徒がするようになった)
脱脂粉乳はうまくない、という声もあったが、まずいと思ったことは一度もない。


クジラの竜田揚げ
クジラの揚げものはよく出た。二日に一度は出たような気がする。
それほど定番中の定番だった。
「竜田揚げ」と呼ぶのは後年に知った。


人造バター
給食にパンの側についていた。


バター
たいてい人造バターだったが、週に一回くらい、ほんとのバターが出た。
人造バターもバターも、学校給食以外で食べることはなかった。


ライスカレー(カレーライス)
給食で食べた。
家で食べたことはない。


缶詰
家でたまに、サバか魚の缶詰が出ることがあった。
缶切りで円に沿って蓋を切った。
缶詰から出る食べ物は珍しくて好きだった。
父が「兵隊の時はよう食うとった」というので、
兵隊はええなあと思っていた。


稲荷ずし・巻きずし
遠足や運動会や学芸会の日の弁当だった。
稲荷すしは、
狐すし・コンコンすしとも呼ばれていた。
巻きずしは、家の家計状況を反映し、黒い海苔から青茶色の海苔があった。
10年ほど前から、
節分の日限定の”恵方巻”という巻きずしができた。


かき氷
かき氷は夏の最大の楽しみだった。
茂平の番屋のお店。これが一番。
大門駅のお店。かき氷よりも、お店のテレビが楽しみだった。
笠岡駅前の金光眼科の隣の店。
どれも、食べれるだけで嬉しかった。


ラムネ
ごく稀に買ってくれていた。
ラムネの玉が気になる飲み物だった。

三ツ矢サイダー
シュワーとして、瓶の量が多かった。兄弟3人で分けて飲んでいた。

アイスキャンデー
自転車で笛を鳴らしながらやってきた。
何回かに一度買ってもらった。
1本5円のと、10円のがあって、いつも5円。
10円の人がうらやましかった。


・・・・・・・・・・・


【重ならない】もの

お子様ランチ,チキンライス
まったく縁がない。

トンカツ
言葉も知らなかった。


にぎり寿司
まったく縁がない。20才を過ぎてから。

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戦前は、何才からお酒を飲んだ?

2020年06月06日 | 暮らし
「昔は何歳からお酒を飲んでいた?」
という問いがあるとすれば、
今と同じで、
「法律では20歳、実際は学校を出ると飲んでいる」、という回答になると思う。

しかし飲む実態は、
今と違いすぎる。
貧しくて酒を飲む機会が無かった。

父の話では、
「飲むのは年に2~3回、
元旦、
それに春、青年団で北川の薬師に酒を飲みに花見に行っていた。
薬師まで徒歩10キロくらいだが、みんなお酒を飲めるので距離は気にならなかった」ようだ。

毎晩の晩酌が可能なのはご大家に限られていた。

おじ(母の弟)は戦中に、
15歳で海軍志願兵に行ったが、
週に一回、夕食に茶わん一杯のビールが付いていたそうだ。
15,16歳の子供に飲ませていた。
 海軍は国家機関だが、
国が法を犯して・・・・、
まあ今の内閣と同じか。




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ザクロを食べる

2020年06月06日 | 城見小・他校
ザクロを食べる

よその家の熟れたザクロを見て、食べたくて仕方なかった。
それを親に言うと庭に一本ザクロを植えてくれた。
それから毎年・毎年秋が来るのを待っていた。
何年か経って、ようやくザクロに実がなり、その実が熟れてきて食べごろになった。
待ちに待ったザクロの実を採って食べ始めた。
しかし、
目で見るイメージとは違って、食べてもうまくない実だった。
あれは観賞用の実であると知った。
翌年も、それ以後も秋になるとザクロの実はきれいに熟れるが、
もう食べたいと思ったことは無かった。
人生一個のザクロで終わりそうだ。

・・・・・

サッカリンで煎り粉を食べる

おやつ代わりに煎り粉(いりこ=はったい粉)を食べていた。
粉に水と砂糖を入れて箸で混ぜるだけ。
しかし、
砂糖は貴重品でめったに使うものでなかった。
代わりにサッカリンがあった。
包丁を逆さにしてサッカリンを半分に割って、砂糖の代わりに利用していた。
このサッカリンは強烈な甘みがあって、いやありすぎて、
空いた腹に通すだけのおやつだった。


・・・・・

きな粉ご飯を食べる

戸棚に、皿にきな粉(きな粉に砂糖を混ぜたもの)があることがあった。
そうゆう時は、おやつにきな粉ご飯を食べていた。
きな粉にはサッカリンを使わず砂糖を使っていた。
砂糖を使うのでずいぶん美味しい粉だった。
茶わんに冷えた麦飯をつぎ、そのうえにきな粉を振りかけていた。
大好物だった。


・・・・・


鯉を食べる

母方の祖父母の家には、庭にため池があった。
その池に錦鯉が何匹か泳いでいた。
おる時、お祖母さんが
「今日は鯉を晩のおかずにしよう」と言ってくれた。
その日は、晩飯が楽しみで、楽しみで、どうしようかいうほどうれしかった。
やっと晩になり、
晩飯に皿にのった鯉が出た。
喜びと感激の時だった、が
それで終わった。
なんな不味い魚は無いというのを知った。



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どうしても見たかった試合『ボクシング』・・・その3

2020年06月06日 | 昭和51年~64年
どうしても見たかった試合④アリvs猪木


まさか世界のアリと日本の猪木が同じリングにあがるとは、夢にも思えないことだった。
それにボクシングとレスリング。
契約の調印をしても、その後も・・・ほんとなんだろうか?といくらか信じられなかった。
テレビでアリの練習風景を見ていると、
やっとほんとうなんだと思えるようになった。

それからは日本中がアリvs猪木の話題一色になった。
試合の予想をするのが日常の会話になった。

初めてのことなので、試合展開や勝ち負けが、予想も想像もしにくかった。
とにかく日本中の話題になり、
試合は土曜日の午後1時頃からテレビで全国中継ということになった。
全国民(?)が土曜日の午後はアリ・猪木戦に注目した。

アントン猪木も世界のアリに「ペリカン野郎」と呼ばれては、苦笑いでごまかすのが精いっぱい。
試合ムードが高まり土曜日になった。
その日はP社岡山出張所の別室で同僚全員(6人くらい)で見た。
朝から仕事の話よりアリ・猪木戦が話題になっていた。
テレビ放送が始まり、
最初の頃はみんな、ワイワイ勝手な予想を言っていたが・・・次第に声が少なくなった。
試合は思わぬ展開になっていった。

アントンはゴングが鳴るたびに、リングに寝た。
たしかにレスリングの猪木が勝つ、または負けないためには、あたりまえの戦法だった。
アントンは寝るしかなかった。
そして毎ラウンド寝て試合は終わった。
両者引き分けだった。

これほど注目された試合もなかったが、凡戦という評価が多かった。
いやいやアリを日本のリングにあげて、正々堂々の試合をしたのは立派なこと。
まあ退屈な試合ではあったけど。
それは、結果論。

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