「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 より転記。
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1922年5月26日、拓川は松山市長に就任した。
「大物」「田舎」市長である。
彼はすでに食道閉塞を病み、ろくに食事もとれないでいた。
郷土の知人の強い要請に受諾せざるを得なかった。
拓川の市長在任期間はわずか9ヶ月、しかも長期入院や中国旅行を挟んでいる。
彼が在任中に手掛けて実現させた懸案は、
松山城跡の払い下げがある、
(陸軍省から久松家が三万円で払い下げを受け、市に寄付)
が、その中心は私立松山高等商業学校の創設である。
・・・・・
拓川の市長就任当時、高商設立準備活動は暗礁に乗り上げていた。
拓川は大阪へ赴いて親友の、松山出身の実業家・新田長次郎(温山1857~1936)を訪問し、
援助を申し入れた。
新田は私財50万円を投じて県の補助金を肩代わりし、文部省が指示する積立金を出すほか、
先々の学校経営費の不足も引き受けると約束し、設立を激励した。
このようにして1923年5月、松山高等商業学校が創立したのである。
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(大正13年)松山商科大学五十年史
設立後、
新田は学校経営にいっさい口出しをしなかった。
同時に、卒業生を自社で採用しないことを条件とした。
第二次世界大戦後の学生改革で、松山商科大学として発足する際にも新田家が資金協力した。
・・・・・・・
1922年11月12日、病院の制止を振り切って拓川は退院した。
11月22日に、摂政(皇太子)裕仁が松山に来るからである。
22日、三津浜港からパレード。
24日、謁見。好古が最初で、拓川が次いで、以下控訴院長、検事長、陸軍中将・久松伯爵、県知事、旅団長とつづいた。
これは位階勲等が高かったからである。
1923年3月26日、辞表提出して、不帰の客となった。
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1922年5月26日、拓川は松山市長に就任した。
「大物」「田舎」市長である。
彼はすでに食道閉塞を病み、ろくに食事もとれないでいた。
郷土の知人の強い要請に受諾せざるを得なかった。
拓川の市長在任期間はわずか9ヶ月、しかも長期入院や中国旅行を挟んでいる。
彼が在任中に手掛けて実現させた懸案は、
松山城跡の払い下げがある、
(陸軍省から久松家が三万円で払い下げを受け、市に寄付)
が、その中心は私立松山高等商業学校の創設である。
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拓川の市長就任当時、高商設立準備活動は暗礁に乗り上げていた。
拓川は大阪へ赴いて親友の、松山出身の実業家・新田長次郎(温山1857~1936)を訪問し、
援助を申し入れた。
新田は私財50万円を投じて県の補助金を肩代わりし、文部省が指示する積立金を出すほか、
先々の学校経営費の不足も引き受けると約束し、設立を激励した。
このようにして1923年5月、松山高等商業学校が創立したのである。
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(大正13年)松山商科大学五十年史
設立後、
新田は学校経営にいっさい口出しをしなかった。
同時に、卒業生を自社で採用しないことを条件とした。
第二次世界大戦後の学生改革で、松山商科大学として発足する際にも新田家が資金協力した。
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1922年11月12日、病院の制止を振り切って拓川は退院した。
11月22日に、摂政(皇太子)裕仁が松山に来るからである。
22日、三津浜港からパレード。
24日、謁見。好古が最初で、拓川が次いで、以下控訴院長、検事長、陸軍中将・久松伯爵、県知事、旅団長とつづいた。
これは位階勲等が高かったからである。
1923年3月26日、辞表提出して、不帰の客となった。