しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

忠犬ハチ公

2021年04月18日 | 銅像の人
場所・東京都渋谷区  渋谷駅前(ハチ公口)
制作・初代安藤照 再建安藤士(照の子)


忠犬ハチ公像は、昭和9年完成。渋谷駅前に設置。
忠犬ハチは、昭和10年死去。
忠犬ハチ公像は、昭和19年出陣式(金属類供出)
忠犬ハチ公像は、昭和23年再建
忠犬ハチ公像は、平成元年渋谷駅開発により移動、台座変更







戦犯美術

渋谷といえば駅前のハチ公が有名だ。
ハチ公銅像は忠犬ハチ公ともいったのを覚えている。
「忠義の犬ということだと・・・」
ふと考えた。
戦犯銅像は忠義の士が指定されるという。
そうなると忠犬はどうゆうことになるのか。

忠犬として称えられたハチ公は、戦争中の金属不足のために溶かされて兵器にされてしまった。
忠臣楠木正成や忠勇義烈の広瀬中佐像は供出を免れたが、同じ忠義でもハチ公は飼い主に忠義だったから残されなかったのか。

「広瀬中佐の銅像」  もりたなるお   新人物往来社  2002年発行






ハチ公の話は戦前アメリカにも紹介されていたので、銅像再建にGHQの許可も特に必要なかった。
しかし、呼称について「忠犬ハチ」でなく「ハチ」にという意見もあったようだ。








撮影日・2011年9月9日






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上杉謙信公騎馬銅像

2021年04月17日 | 銅像の人
場所・新潟県上越市春日山町 「謙信公武道館」


春日山駅を出て、正面の春日山城を仰ぎ見ながら目指していると体育館が右手にあり、銅像があった。
それが「謙信公武道館」であり「上杉謙信公騎馬銅像」だった。
日本100名城のスタンプは、この体育館でもらえる。





上杉謙信

天正4年(1576)には上杉と本願寺との講和が成立し、織田と上杉との同盟は破れた。
翌5年9月15日、
中秋の名月の日に七尾城を手に入れ、
転じて加賀に進み湊川(名取川)で織田軍を撃破、加賀の北半を制圧した。
そしてまた能登に帰り七尾城の未亡人とその幼児の面倒をみることにした。

勢いに乗ったかれは、関東平定をも実現しようとして、天正6年(1587)正月、関東出兵の陣触れをおこなった。
大進発の日は3月15日、謙信一代のうちで最大規模の動員であった。
ところが出発の6日前、3月9日午刻(正午)、とつじょ厠で昏倒し、人事不省となった。脳出血である。
病床にあること5日、ついに永眠した。

四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒

かねて用意してあった辞世の句であった。
和歌もたくみで、人情味のある武将であった。
その身長は六尺ちかく、目つきの鋭い偉丈夫でもあった。


「新潟県の歴史」 井上鋭夫 山川出版社 昭和45年発行







上杉謙信

戦国時代の武将。
天文17年(1548)春日山城主となる。
越後へ亡命してきた上杉憲政を助けて関東にはいり、
のち上杉憲政の養子となる。
信玄没後、越中・能登・加賀に進出したが上洛はできず、越後の雄として終わる。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行






撮影日・2015年3月8日


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「杜若(かきつばた)」の像

2021年04月17日 | 銅像の人
場所・石川県金沢市  能楽堂


金沢の街は戦災も受けず、今も加賀百万石の街並みと風情が残り、なんともいえない魅力がある。





金沢の街には
この歌がぴったりくる。歌・詞・曲、三拍子そろった名曲。

謡曲がふるふる 加賀宝生の
木洩れ陽青い 石だたみ
ああ 金沢は 金沢は・・・


加賀の女 歌:北島三郎 作詞:星野哲郎 作曲:島津伸男」







「石川県の歴史」  下出積興 山川出版社 昭和45年発行


加賀宝生の世界

”加賀へ行くと天から謡曲が降ってくる”、
屋根葺や植木屋が、仕事をしながら謡の一節を口ずさむからだ。

室町時代以来、能楽は武家のたしなみとされていたので、加賀の富樫、能登の畠山によっておこなわれたが、
さかんになったのは江戸時代にはいってからである。
利家は幸若舞の愛好者で、能楽のファンでもあった。
利長も父の資質をうけ神事能をはじめた。
宝生流とのつながりができたのは三代利常のときである。

加賀宝生の伝統の基礎をつくったのは綱紀である。
綱紀は、将軍綱吉の好みにおうじて能を宝生大夫友春(9代)にならった

それだけでなく、藩の能大夫も宝生流に弟子入りさせ、以後は藩内の能楽を宝生流一本に統一する。
さらに綱紀は細工者(工芸職人)たちにシテ方以外の各部門を余技として修練させた。
その上手下手におうじて扶持の増俸があった。
これが、町民各層をはじめ農民にいたるまで能楽を普及させた大きな原因となった。

半面、中世以来の他の芸能はほとんどこのころまでに姿を消してしまった。
幸若はおとろえ、
琵琶法師もうけつぐものはなかった。
歌舞伎は寛永以後は興行されなかった。









撮影日・2016年2月2日


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藤堂高虎

2021年04月17日 | 銅像の人
場所・愛媛県今治市通町
制作・2004年(平成16年)


「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

藤堂高虎
処世にたけたスパイ大名



戦国時代は、よき主君をもとめて諸家を渡り歩くことはふつうに行われ、
「七たび主家を変えねば一人前とは言えぬ」といわれたほどであった。
その意味での典型が藤堂高虎である。
高虎は七たび主人を変えた。

とりたてて挙げるべく武勇譚がほとんどない。
高虎は槍ばたらきよりも、人間関係を滑らかにすることで世を渡ろうとしたようである。

高虎は、秀吉死後の天下人を、家康とみとめ、しきりと接近をはかり、家康の対立者たちの情報を細大もらさず家康の元へ運びこんだのである。
高虎の家康への献身は、当の家康が死んだ後もつづく。


【藤堂高虎】

近江浅井郡藤堂郷に生まれる。
浅井家の滅亡後、主家を転々とし、文禄3年(1594)秀吉につかえて伊予宇和島で7万石。
第二次朝鮮の役では水軍として出動。
関ケ原役後、伊予半国をあたえられ、のち大坂の役の功で伊賀伊勢32万石となった。
元和2年(1616)没、75歳。






(Wikipedia)
藤堂高虎

時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治2年1月6日(1556年2月16日)
死没 寛永7年10月5日(1630年11月9日)
改名 与吉(幼名)、高虎
主君 浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→津田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光
藩 伊予今治藩主→伊勢津藩主

藤堂 高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗
何度も主君を変えた戦国武将として知られる。
築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。
高虎の築城は、石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。











撮影日・2018年10月13日



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加藤嘉明

2021年04月16日 | 銅像の人
場所・愛媛県松山市  松山城


「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

加藤嘉明は、加藤清正・福島正則らとならんで、賤ヶ嶽の七本槍のひとりにかぞえられた武勇の将だが、
演技臭やハッタリがなく、若くして老成した感がする。

関ケ原役の功によって嘉明は伊予松山20万石から会津40万石の大封に加増されたが、嘉明はこれが不服だったらしい。
加藤家は、子の明成の代に会津42万石を没収されて断絶のうき目を見た。











【加藤嘉明】
三河の出身で、早くから秀吉につかえ、賤ヶ嶽七本槍の功で3千石を与えられ、天正13年淡路で1万5千石、
朝鮮の役では水軍として出動。
慶長2年には巨斎島で敵船を奪取した。
関ケ原役後、伊予松山城を築く。
後会津42万石に転封。
寛永8年(1631)没す。69歳。








撮影日・2011年7月14日





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中島知久平

2021年04月16日 | 銅像の人
場所・群馬県太田市 金山城跡


日本100名城の「金山城」に登城したら、城跡からスバルの工場や北関東の平野や市街地が見渡せた。
そこに銅像が建っていた。
中島飛行機(戦後・スバル)の創業者中島知久平の像だった。









群馬県太田市のHPより

飛行機王中島知久平




知久平は、尾島町押切の農家の長男として明治17年(1884)に生まれ、
18歳の時に軍人を志して上京し、海軍機関学校を卒業、海軍の軍人となり、大正6年(1917)3月に退官した時は機関大尉でした。
海軍時代の知久平は、軍人としての職責を全うする傍ら、アメリカ・フランスで航空機産業の視察・研究を重ね、折からの大戦で大艦巨砲主義を排し、飛行機の重要性を説くようになり、
「飛行機を大空に飛ばす」という自身の夢を現実化することになりました。

知久平は、大正6年5月、海軍を待命のまま尾島町前小屋の養蚕農家の借家に「飛行機研究所」の看板を掲げ、
退役が決定した同年12月に、太田町の大光院東の洋館に研究所を移転し、本格的に飛行機の研究・製造を開始しました。
当初は、なかなか飛ぶ飛行機の製造は叶わず、大変苦労しましたが、大正8年2月、四型6号機を完成させました。
飛ぶ飛行機の完成です。以後、陸・海軍からの大量受注により、中島飛行機は飛躍・発展を遂げ、その生産量・技術とも日本の航空機生産業界の頂点に立ち、
太田は「飛行機の町」として広く知られるようになりました。


また、知久平は昭和5年(1930)以降衆議院議員として連続5回当選し、
昭和6年に犬養内閣の商工政務次官に、同12年には近衛内閣の鉄道大臣に、同20年に東久邇内閣の軍需大臣(後の商工大臣)を歴任するなど、
中央政界において、その実力をいかんなく発揮しました。

昭和24年(1949)10月、東久邇内閣での同僚である松村謙三と談笑中、病を得て倒れ、65歳の生涯を閉じました。




撮影日・2017年9月28日


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本多忠勝

2021年04月16日 | 銅像の人
場所・愛知県岡崎市   岡崎公園




「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

本多忠勝
「家康に過ぎたる」合戦の勇者

本多平八郎忠勝は、徳川譜代の武功派として四天王のひとりにかぞえられた典型的な戦国武将である。
史書の伝える忠勝は、
「若年より軍におもむくこと、およそ50余度におよび、
武功すぐれておおしといえども、
いまだかつて創をこうぶることなし」
という勇将である。
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」、これもよく知られている。


三方ヶ原の合戦の時、忠勝は25歳であった。
徳川軍大敗北の殿軍の大役をつとめることになった。
のちに武田方の初鹿野伝衛門が回顧して語っている。
「・・・その時、殿軍の忠勝を追撃しようとしたが、
蜻蛉切の槍を片手でふりまわし、鬼神のような形相で睨みつけられると、全身が総毛だって、手も足も出なかった」


後、桑名15万石に封ぜられた。







撮影日・2014年10月10日



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和気清麻呂

2021年04月15日 | 銅像の人
場所・岡山県和気郡和気町藤野 和気神社前
ブロンズ(茶色塗)
作者 朝岡文夫
像高 463cm 台高 180cm
昭和59年3月建立




「岡山彫像」 岡山文庫 平成元年発行

天文5年(733)藤野の生まれ。
国政に参与し、長岡遷都・平安京建設などの業績あり、
宇佐八幡宮に使して弓削道鏡の野望をくじいいた話は有名。






戦前は天皇家を護った英雄。
戦後は平安京遷都などが事績として紹介されている。










和気清麻呂 (733~799)

現在和気町にぞくする藤野郷の豪族和気氏の出生と伝えられる。
早くから奈良朝廷に仕え、
藤原仲麻呂の乱の鎮圧に勲功があった。
また大宰府の宇佐八幡に詣でて、神託によって道鏡の陰謀を覆したのは神護景雲3年のこと。
延暦23年、62歳の時には彼の健言が入れられて、都は平安の地に移る。
清麻呂は造営太夫として工事を指揮したが、工事半ばにして率した。

乱による犠牲者の救済、また棄子83人を養育して
わが国孤児救済事業の始まりとなった和気の広虫は、清麻呂の姉である。

「岡山の人物」  黒崎秀明  岡山文庫 昭和46年発行




和気の清麻呂

和気氏が美作から備前東部にかけて勢力をもっていた豪族であることは、ほぼ正しい推測であるといえる。
和気氏を代表する人物が、和気清麻呂であることはよく知られている。

清麻呂とその姉広虫とが、宇佐八幡の託宣を奉じて、道鏡の帝位就任を退けたことは、戦前の歴史教科書では特に有名であるが、
清麻呂については、その開発土木事業に注目しなければならない。

「おかやま人物風土記」 岡山県広報協会  平成14年発行










撮影日・2007年5月2日



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吉備真備

2021年04月15日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市真備町  (倉敷市真備支所)






吉備真備

奈良朝の政治、学術、文化の上に吉備真備の残した足跡は大きい。

その出生は吉備郡真備町八田に生まれたと伝えられる。
父が下道朝臣(しもつみちあそん)国勝という勢力者だったから、真備は早くから奈良の都へ上って学問をし、
23歳の春には派遣学徒として唐へ渡った。
同行の中に当時16歳の阿倍仲麻呂もいた。

この地で真備は19年間にわたって、儒学、暦学、天文、度量衡、武術、音楽など多方面の学問芸術を習得し、
帰朝すると大学助に就任した。
同時に皇太子の教育を担当する東宮学士という役目も与えられる。
この皇太子が孝謙天皇で、真備は再度、遣唐副使として唐にわたるのである。

この再唐にさいして真備には大きな役目が課せられていた。
それは唐の名僧鑑真和上を日本へ招聘することである。
仏教の権威を高めるため、どうしても高僧の来朝が必要だった。
その後の日本仏教界に彼が重きをなしたことはいうまでもない。

天平勝宝押勝の乱を、軍師として鎮圧した。すでに70歳だった。
晩年は愛用の琴一面をたずさえて郷里に帰り、光風霽月を友にして余生を送ったという。


「岡山の人物」  黒崎英明  岡山文庫  昭和46年発行








撮影日・2011年7月10日




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宮本武蔵

2021年04月15日 | 銅像の人
場所・岡山県美作市  リゾート武蔵の里五輪坊





宮本武蔵

宮本武蔵の伝記に関しては、今なお不明な点が多い。
殊に、その出生地、実父、養父のことは異説が多く、とうていまとまりがつかない。


武蔵自筆の『五輪書』から、要約すると、
天正12年に播州で生まれた。
13歳で有馬喜兵衛に勝ち、16歳で但馬の秋山其に勝ち、21歳で京にのぼり数度の他流試合に勝ちを制した。
28.29歳までの間に66度の試合をして、一度も負けなかった。
30歳を越してからは、剣法の理論にうちこんで他流試合をやったが、
50歳ごろ、自然と剣の奥義に目を開き以後は剣理によって自得した。
その兵法を二天一流と称し、肥後岩戸山において『五輪書』の執筆を始める。時に60歳。


『五輪書』に書き漏らしている事項はひじょうに多い。
慶長5年、17歳、関ケ原合戦に出たという説があるが、一言も触れていない。
慶長9年、21歳、その頃行われたと思われる吉岡一党との決闘に触れていない。
慶長17年、29歳、巌流島の決闘のことも書いていない。
慶長・元和の大阪の陣、31.32歳、武蔵は陣場稼ぎに出たらしいことになっているが、触れていない。
32歳以前の彼の履歴は、ほとんど何も判明していないし、
古文書類も皆無というに等しいのである。


「日本剣豪100選」  綿谷雪 秋田書店  昭和46年発行  







撮影日・2009年4月18日
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