しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

宮島水中花火

2021年04月14日 | 無くなったもの
場所・広島県廿日市市宮島
無くなった日・2019年8月が最後
撮影日・2007年8月14日   


宮島水中花火打ち切り決定


今日(2021.4.14)の中国新聞に、「宮島水中花火が打ち切り決定」と一面に大きく掲載された。
2020年と2021年はコロナのため、中止。
2022年は安全対策が取れないので中止、以後同じ(打ち切り)。

つまり2019年の宮島水中花火が最後の大会ということになった。


・・・

宮島花火には一度見に行った。
その時の感動と感想と失望はよく覚えている。

・・・

読売旅行のバスツアーで見に行った。
バスでは三原市のおじさんと相席で、これから見る花火とツアーについて”意見が一致”した。
「バスツアーは神社も見れる、弥山に登れる、水族館も見れる。それでバスに申し込んだ。」

・・・

帰りのバスでも三原のおじさんと”意見が一致”した。
「道は混む、歩く、疲れる。もう参加しない」

・・・

その日、自宅には(その日に帰れず)翌朝の2:30だった。
ポストには既に新聞が入っていた。






宮島口でバスからおりて、以後花火が終了するまで自由行動。


弥山に登った。






花火は午後7:50ごろから始まる。
それまでも多かった観客は、午後7時をすぎると、怒涛のごとく押し寄せた。


海辺、潮風・・・そんなものはなく、過密・密集で人の汗の匂い、土埃。初めて体験する終わりのない人の数。


(この写真は始まる前。さらに
後方からは満員のフェリー客が容赦なく詰め込む、前方からは潮が満ちて後ずさりする客が迫る。暗くなる頃には、この倍の密集となった)




さすがに花火はきれいだった。








その後がまた、経験したことのない歩みだった。




例えれば、
東京の通勤ピーク時の電車の混み具合。しかし、混むだけだ。
宮島はその状態で連絡船まで歩く、下船後もその状態で歩く。この違いは大きい。






今朝の新聞見て、・・・宮島だけで50.000人、本土にも観客、海上も事故が多い・・これは中止も仕方のないことだと思った。





2007年8月14日   



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷干城

2021年04月14日 | 銅像の人
場所・高知県高岡郡四万十町窪川 (四国霊場37番札所・岩本寺の参道脇)




高知県四万十町HPより
「西郷を止めた男 谷干城(たにかんじょう・たてき)」






西南戦争
明治10(1877)年に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。
明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、現在日本国内で最後の内戦である。

新政府、討伐軍を派遣
西郷軍の邀撃に動くため、当時、情勢不安定だった九州を安定させる役割で派遣されていた谷干城が熊本城で反乱軍を迎え撃った。

熊本城籠城作戦
この戦いが雌雄を決する最大の前哨戦とされた。兵力差は歴然だったが大方の予想に反し、干城率いる政府軍は五十余日に寄る籠城により勝利をおさめる。

西南戦争での功績なども有り、日本における重鎮となっていった干城。
明治17(1884)年には学習院院長に就任し、子爵を授けられている。
明治18(1885)年、第一次伊藤博文内閣で初代農商務大臣に抜擢。在任中の欧米視察では、欧州の実情や行政の実学を学び、帰国後は欧米をまねる外交政策や農民への酷税などの見直しを求めた。
帝国議会開設後は、貴族院議員として、国民の困苦を顧みない政策や日露戦争など、国を危うくする戦争などに反対。論客として政界・言論界に影響を与え続けた。







「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行

西南戦争

さすがの薩軍も、この堅城には攻めあぐねた。
薩軍は攻城に必要な重火器も持たなかった。
これでは堅固な城が落ちるわけはない。

こうしてもたもたしているうちに、政府軍は着々増援軍を送り、筑紫平野を南下させた。
また、八代に上陸して薩軍の背面を衝く。
薩軍を南北から挟撃する態勢に出た。

こうなると薩兵も、兵力を三分しなければならなくなった。
薩軍は、その戦闘の中心を田原坂の防御に求めた。






撮影日・2018年10月1日





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西郷隆盛 (城山の洞窟)

2021年04月13日 | 銅像の人
場所・鹿児島県鹿児島市城山町 「西郷隆盛洞窟」前






西郷軍は熊本まで攻めのぼるが、熊本城は落とせず、
九州を大行軍して鹿児島に帰り着く。
9月に入り、西郷は城山の狭い洞窟の中にいた。

9月24日、官軍が総攻撃を始める。
西郷は洞窟を出て、最前線に出ようと歩いていくが、途中で腹に官軍の弾丸が当たる。
西郷はかたわらの別府晋介にむかって、

「晋どん、晋どん、もうここでよかろ」
と言ってすわった。
晋介がその西郷の首を介錯した。

「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行









「西南戦争」

西郷隆盛率兵進発 明治10年2月15日(1877年)
西郷隆盛ら自刃   同年 9月24日

西南戦争の誘因は、征韓論に敗れて下野した西郷隆盛が、東京を去って鹿児島に隠退したことからはじまる。
鹿児島の軍事訓練校でもある私学校の生徒が西郷の不遇に憤慨し、武力蜂起を実行にうつそうとした。
それを阻止していた西郷も遂に力およばず,止むなくこれを指揮して東上の兵を起こしたのである。

こういえば簡単だが、その内情はけっして単純ではない。

幕藩体制の崩壊と新政府政策の矛盾のあらわれ、廃藩置県に付随した徴兵制度による全国武士階級の没落、
政府の財政窮乏からくるインフレ、地租改正による農民の不安と秩禄喪失による士族の生活難、木戸と西郷の対立、
派閥的には長州と薩州の反目が内在している。

西郷はブルドーザーのごとく旧制度を破壊したが、緻密に鉄筋を組み立てていく建築家ではなかった。
武人は敵の破壊が任務であって建設者ではない。
西郷は根っからの武人だった。

幕府を兵力で倒した西郷が、その後に見たものは新政府による廃刀令、徴兵制、地租改正などの他、
士族の失業に与えるに長期年賦の秩禄公債と気にいらぬ改革ばかりだった。
鉄道敷設に金を使うよりも兵力の充実に回すべきだと彼は不平満々だった。
二百万の士族の困窮を、新政府が見殺しにしているのも不満にたえなかった。

・・・

9月24日午前4時、号砲3発、その響きは殷々として城山を震わせた。
雲霞の如き官軍は、こうして四方より城山に総攻撃をかけたのである。
別府晋助と逸見十郎太は西郷の左右に従がっていたが形勢は急なり、
「もう、ゆはごはんすめいか}
「まだまだ」
また行くこと一町余り。
四方から集中した弾丸は驟雨のごとくである。
逸見はまた問うたが「まだまだ」と西郷は言った。

流れ弾丸が西郷の股と腹を貫通した。
西郷は別府をかえりみて、
「晋どん、晋どん。もう、ここでよか」と云い、地に座った。
別府晋助は西郷に向かい、
「ごめんなったもんし」と、
刀を持って西郷の首に打ち下した。
隆盛、51歳であった。

この日、戦闘は午後4時をもって始まり、同9時に終わった。
西郷の首は一兵卒が発見し、これを清水で洗って浄めた。
山県の回想に曰く。
「このとき余は西郷の首実検をし、一面には征伐の任務を全うしたことを喜んだが、
他の一面には、一代の傑出したる英雄がかくのごとき運命に遭遇したかと思い、
覚えず厳然として涙下り、哀情が耐えられなかった」(公爵山県有朋伝)

西郷としては、せめて故郷の鹿児島に戻って死んだのが本望だったろう。


「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行






撮影日・2013年8月8日




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お市の方

2021年04月13日 | 銅像の人
場所・福井県福井市  北ノ庄城跡

織田信長の家系は容姿が優れていたのだろうな、みな。
お市の方も、美人・悲劇・血筋を残し、名を歴史に残した。


お市の方

お市の方の肖像画が、いまも高野山持明院に所蔵されているが、
さすがに戦国一の美女の面影をうかがわせるものがある。

お市の方は薄幸の運命に翻弄された女性だった。
はじめ近江の浅井長政にとついで三女二男を生んだが、夫と長男は信長に殺害された。


北ノ庄城の最後。
勝家は再三、お市の方に退城をすすめた。
しかしお市の方は最後まで首をたてにふらず、夫と運命をともにすることを誓い、
辞世をよんだ。お市の方は37歳であった。


 さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の
   夢路をさそうほととぎすかな


「戦国武将100話」  桑田忠親監修  立風書房 1978年発行






「歴史と旅」 昭和52年9月号 秋田書店
戦国三美人 お市の方・ガラシャ・勝頼夫人 来水明子

ひたむきな母性愛---お市の方


お市の方は、おそらく10代後半の年齢で、浅井長政のもとに嫁ぎ、
天正元年9月の小谷落城まで、足掛け7年の歳月を浅井家に過ごして、長政との間に数人の子女をもうけた。
夫の長政が自刃を遂げたあと実家に戻って寡居すること10年、
本能寺の変のとしの天正10年(1582)の8,9月頃に、
信長死後の勢力分野再調整の一環として、柴田勝家と再婚し、
翌天正11年4月24日、越前北ノ庄城で勝家とともに世を去った。

つまりお市の方が勝家夫人であったのは正味8ヶ月ばかり、一年にも足らぬ期間のことで、もちろん勝家とのあいだには子もなかった。
勝家の方は彼女との再婚のとき、すでに老齢に近かった。
三人の姉妹は、北ヶ庄城落城の時はすでに15.16から11.12までの少女となっていた。
婚期の早かった当時にあっては、三人とも、もうそろそろ母のもとを離れる年齢だったといっていい。

最初の婚家の浅井家は亡びてあとかたもなく、
柴田家は今や滅亡の寸前、
実家の織田家は甥たちが四分五裂のありさま。
お市の方は無常感をつよく誘われる点もあったはずである。


さらぬだに うちぬる程も夏の夜の 別れをさそうほととぎすかな

お市の方の辞世として諸書が伝える歌である。





撮影日・撮影日・2015年8月3日  


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柴田勝家

2021年04月13日 | 銅像の人
場所・福井県福井市中央   北ノ庄城跡
建立・1967年(昭和42年)


柴田勝家

剛直ひとすじの武将である。
織田信長の死後、その跡目をめぐり、秀吉とはげしい主導権争いを演じて敗れた。

民政家としては、
一向一揆を討伐して越前北ノ庄城主となった勝家は、
刀狩りを断行し、農民の武器をすべてとりあげたが、
これを農機具に鋳なおして、また農民に与えている。
国中から48艘の船を集め、これを鎖でつないで橋にした。


織田家の跡目を決める清洲会議で、勝家は信長の三男信孝を推したが、
丹羽長秀を味方につけた秀吉が成功した。
そのかわり、当時絶世の美女と謳われた信長の妹お市の方を妻にむかえたのである。

賤ケ岳の合戦で敗れ北ノ庄で自害、62歳であった。

「戦国武将100話」  桑田忠親監修  立風書房 1978年発行










柴田勝家像
「鬼」と呼ばれた猛将

織田信長の筆頭家老。
無骨な性格で武勇に秀でたため「鬼柴田」と呼ばれる。
水瓶を割って背水の陣で出撃して敵を打ち破った逸話から
「瓶割柴田」の異名ももつ。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行









「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

柴田勝家

通称権六。修理亮(しゅりのすけ)。
織田家筆頭の老臣で、天正3年(1575)9月信長の越前一向一揆討伐後、越前国主となる。
本能寺の変のときは、越後の上杉景勝にあたっていた。
賤ケ嶽の合戦で敗れて居城北ノ庄で自害した時は62歳で、妻のお市の方は37歳であった。
墓は、福井市左内町の西光寺にある。






撮影日・2015年8月3日  



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅立ちの法然さま

2021年04月13日 | 銅像の人
岡山県久米郡久米南町里方   「誕生寺」
ブロンズ
作者 山田良定
昭和49年6月 浄土宗保育協会建立





法然(源空)

浄土宗の開祖
1132年 誕生時で出生
1145年 叡山に登り修業
1175年 浄土宗を開く
1212年 京都で寂す
岡山文庫





誕生寺・ 会式法要(二十五菩薩練供養) 



平安時代の終わりごろ、法然は久米南条郡稲岡荘の押領・漆間時国の子として生まれた。
幼名は勢至丸。
勢至丸が9歳の時、時国は夜討にあい、時国は討ち死にして所領は横領された。
この不幸が、勢至丸を浄土宗の開祖法然にするきっかけとなった。

勢至丸は叔父観覚のもとにひきとられ仏門にはいったが、天養2年(1145)、13歳のとき、観覚のすすめで比叡山にのぼった。
18歳の時、天台座主への栄光の道をすて、隠遁、読経と思索にふけった。
腐敗堕落した天台宗にあきたらず、くるしむ民衆を救済する真の仏教をもとめつづけた。
「南無阿弥陀仏」を念仏をとなえれば、その念仏の功徳によって、
どんなに罪業ふかいともがらであろうとも、来世の往生極楽いたがいなしとし、専修念仏の浄土宗をおこした。


鎌倉仏教のなかでも、もっともはやく貴族の間に浸透し、民衆の間にもひろまった浄土宗も、
ふしぎに法然の故郷の美作地方にはのびていない。
法然みずから郷里への布教はおこなっていないのである。
誕生寺が建立されたのも南北朝時代である。

「岡山県の歴史」 谷口澄夫  山川出版社 昭和45年発行






撮影日・2016年4月17日 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最上頼光

2021年04月12日 | 銅像の人
場所・山形県山形市  山形城跡





義光は家康の気を引くため、徳川家の臣になっていた次男に家督を譲り、長男を殺害した。
義光の死後これが原因となって家中がみだれ、孫のとき最上家はとりつぶしとなったのである。


【最上義光】
出羽山形城主。
足利氏の一族斯波兼頼の子孫で、義光は11代目。
朝鮮の役の時は、肥前名護屋城に家康とともに駐在した。
関ケ原役後山形57万石となる。
慶長19年(1614)没す。69歳。

戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行









日本の城下町2東北(二)1981 ぎょうせい

山形市

山形市の築城と城下町づくりは最上義光によって行われた。
最上改易後の山形城主には鳥居、次いで保科と変わり、幕末まで十二氏が変わった。
あわただしい交代劇は,藩風、藩学や、芸能文化も移入しなかった。

義光は最上川の三難所を削岩させ船便をひらいた。
山形を玄関として、幕府天領米・藩米は最上川を下って酒田から海路・江戸に送られ、
西回り航路がひらけると最上産の紅花・青そなどが京都・大坂・奈良へとおくられるようになる。
返り荷には、塩・砂糖をはじめ瀬戸物・太物・古手物・操綿・木綿などが送られてきた。
最上川水運がととのったのは寛文(1596~1673)にかけてである。
京都や奈良へ紅花・青その交易に先鞭をつけたは近江商人で、日野系と八幡系。

紅花は陽暦でいえば7月はじめから咲きだし、15日間くらいで終わる。
農家が朝早く摘んだ生花を、サンベと呼ばれる買人が買い集めて、山形の花市に持っていって加工する。
享保の頃、京都の花問屋が生産地で直接買い取りをはじめた。
そのころ、生産者農家も、自分の庭で花餅をつくるものが増えてきた。
明治初年、化学染料が輸入され出した。






撮影日・2019年6月30日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堀尾吉晴像

2021年04月12日 | 銅像の人
場所・島根県松江市  松江城






「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行

堀尾吉晴
鬼神の働きホトケの茂助

秀吉は堀尾吉晴の武功について、
「吉晴は、わしが藤吉郎といった時代からの家来で、幾度もの合戦に出撃しているが、
その武功は万人にまさり、源頼光の四天王にも匹敵する」

信長の浅井攻めでは、敵の斥侯を討ち取り、長篠の役で首二級をとっている。
中国の毛利攻めでは身に13ヶ所の傷を負うという大奮戦だった。
明智討伐の山崎の合戦、柴田勝家を破った賤ケ嶽の合戦と、吉晴の武名は合戦のたびに高まっていった。


吉晴はふだんは温厚で、容貌は一見して女のようにやさしかったという。
「仏の茂助」とあだ名されたぐらいであった。

秀吉の死後は、徳川家康に近づいている。










愛知県生まれで、織田信長や豊臣秀吉に仕え、関ケ原合戦後、

松江に転封された大名。

松江城と城下町を開発したが、吉晴は城の完成直前に急死している。

「日本の銅像完全名鑑」 広済堂出版 2013年発行










撮影日・2019年4月4日



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐久間象山

2021年04月12日 | 銅像の人
場所・長野県長野市小島田町  川中島古戦場(八幡原史跡公園)



「氷川清話」  勝海舟 角川文庫 昭和47年発行

佐久間象山

佐久間象山は、もの知りだったよ。
学問も博し、見識も多少もっていたよ。
しかしどうもほら吹きでこまるよ。
あんな男を実際の局に当たらせたらどうだろうか・・・、なんとも保障できないのう。

顔つきからして一種奇妙なのに、古代模様の袴をはいて、いかにもおれは天下の師だというように厳然とかまえこんで、
元来勝気の強い男だから漢学者が来ると洋学をもっておどしつけ、
洋学者が来ると漢学をもっておどしつけ、ちょっと書生が尋ねてきても、じきにしかりとばすというふうで、
どうも始末にいけなかったよ。









国立国会図書館

佐久間象山 さくま しょうざん
文化8年2月28日~元治元年7月11日 (1811~1864)

解説
実名は国忠のちに啓、号は象山。
父は松代藩の祐筆。
天保4年(1833)に江戸へ出て佐藤一斎の私塾に入るが、3年後には松代に帰る。
10年江戸に塾を開く。老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ13年に「海防八策」を上書。
安政元年(1854)吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。
文久2年(1862)赦免。元治元年(1864)幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺される。








撮影日・2014年7月14日



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上杉謙信

2021年04月11日 | 銅像の人
場所・新潟県上越市春日山町  春日山城跡


春日山城はJR春日山駅の真正面に位置し、駅前通りがそのまま春日山城へとつづく。
今も市民の心に、戦国武将謙信は顕彰されているような感じがした。





上杉謙信


享禄3年(1530)越後守護代長尾為景の子として生まれる。
初めの名は景虎。
兄や一族と争ったが、守護上杉定実の調停で守護代につき越後春日山城主となる。
天文21年(1552)亡命してきた上杉憲政から上杉の姓と関東管領職を譲られる。
武田信玄との川中島での決戦は5度に及んでいる。
越中を平定し、能登・加賀に進攻し、織田信長と対決して天下に覇をとなえんとしたが、
惜しくも天正6年病に倒れた。墓は、高野山および上越市林泉寺、米沢市御廟町にあり、
遺品の数々が米沢市の上杉神社におさめられている。




「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行












撮影日・2015年3月8日


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする