しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

長宗我部元親

2021年04月09日 | 銅像の人
場所・高知県高知市長浜
建立・1999年(平成11年)



「鬼若子」と呼ばれた四国の覇者

土佐の国人だった長宗我部国知価親から領地を継ぎ、1代で四国を統一するまでに成長。
その後、豊臣秀吉に敗れ、土佐一国の支配者になる。
元親は初陣まで「姫若子」と呼ばれるほど貧弱だったが、後に鬼武者へと変わり、
「鬼若子」の異名をとった。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行










土佐一国は、ひょんなことから尾張出身の山内一豊が授かった領地である。

土佐にいたもともとの武将は、長宗我部元親だった。
その人物がほとんど一代で土佐全土どころか、四国の全土を平らげたのである。
それなのに、秀吉と戦って敗れて土佐一国に押し込められ、後に、
家康によって家をつぶされたのだ。

そういうところへ、一豊は赴任してきたのである。

「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行









撮影日・2018年3月24日



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千姫様

2021年04月08日 | 銅像の人
場所・兵庫県姫路市  姫路城






「千姫様」  平岩弓枝  角川書店  平成2年発行 

千姫様


冬の陣が終わったとたんに、あっという間に外堀、内堀を埋め、
二の丸、三の丸を打ち壊したから、本丸はまるで裸同然のみすぼらしい姿になった。
秀頼が口惜しげにいうのを、千姫は泣きたい気持ちで聞いていた。



・・・・

「貴公は坂崎出羽守どのではないか」
坂崎出羽守と呼ばれた男が、千姫を見て土に膝を突いた。
「姫君には、よくぞご無事で・・・坂崎出羽守、御案内申し上げる。」

「よく戻って来た。さぞかし怖い思いをしたであろうな」
この孫娘に会うのは七歳の時以来だと家康は思った。






 
桑名城で、千姫と本田忠刻の華燭の典がとり行われて後、
人々の耳目を驚かせたのは、坂崎出羽守が乱心のため、家臣によって殺害されたが、
将軍家の格別の思し召しをもって坂崎の家は取り潰しにならずにすむらしいということであった。


忠刻との初夜で、千姫は、はじめて自分の女が花開いたように思った。
夫の愛撫に我を忘れ、取り乱し、慎みをかなぐりすてて絶叫する夜が重なって、
千姫はさながら牡丹の花のようなあでやかさであった。







秋、本多家は将軍秀忠より姫路へ国替えを拝命した。
更に、千姫の化粧料として十万石を忠刻に与え、
「何事も、東照大権現様の御遺命である。
白鷺城は、千姫にふさわしい名城、本多家によって、より美しい城に仕立てるように・・・」
との御沙汰があった。

千姫が幸千代を出産し、御城内は無論のこと、播州の津々浦々まで、祝賀の太鼓が打ち鳴らされ、
百姓、漁民に至るまで仕事を休み、町々の主だった者には御城内から祝い酒が下されるといった大賑わいになった。
「これで我が本多家は万々歳」
・・
幸千代は三歳の愛らしい盛りに亡くなった。
夫婦の夜が、前にも増して濃くなって、やがて千姫はみごもった。


夫の死を知った時、千姫は狂乱した。
老いた父が、若い息子の死を見送るのであった。
しかも、その息子には跡継ぎの嫡子がいない。
家光の姉への思いで千姫の江戸へ帰ることが決まった。







弟の家光の長男竹千代(4代将軍家綱)の母代わりとなり、千姫はまさに徳川宗家の感があった。
家光は48歳の生涯を閉じ、千姫は55歳で弟を見送ることになった。

千姫が生涯を終えたのは、寛文6年2月6日のことで、70歳の古希を迎えた年の事であった。
千姫の死に対して、諸大名は総登城し、将軍に弔意を述べた。




撮影日・2018年12月14日




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佐々木盛綱

2021年04月08日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市天城






平氏は扇をさしあげ源氏を招く。

盛綱は部下十五人と馬にまたがり、さっと海に乗り入れた。
盛綱らはどんどん進み、とうとう海を渡りきってしまった。
まず名乗りである。

「今日海を渡り、敵陣に進む大将軍をば誰とか見る。
宇多天皇より九代の孫、
近江の国の住人、
佐々木源三が三男、
三郎盛綱なり、
平家の方にわれと思われん者は大将もさむらいも落ち合って組めや、組めや。」(源平盛衰記)


「歴史の旅 吉備」 神野力 秋田書店 昭和46年発行








「岡山県の歴史散歩」 岡山県高校教育研究会編  山川出版社  1976年発行

藤戸合戦

「平家物語」は、戦の模様をいきいきとつたえている。
1184年(寿永3)12月はじめ、源平両軍は藤戸海峡を挟んで対陣していた。

児島に陣をしいた平家側は扇でまねいて挑発したが、水軍をもたぬ悲しさ、源氏側は手のつけようがなかった。
ところが12月6日夜のこと、
盛綱は部下とともに騎馬で海峡をおしわたり、平家の不意をついて先陣の功をあげた。
盛綱はその手柄によって、源頼朝から児島をたまわった。

盛綱が先陣の功名によっていたころ、浮洲岩のあたりにひとりの若い漁師の死体がただよっていた。
先陣の功をあせった盛綱が、一すじの浅瀬が同僚に漏れることをおそれ、殺害したのだった。

笹無山
漁師の母親は『佐々木といえば笹までにくい』と狂ったように笹をかきむしり、後世まで笹がはえなかった。





(藤戸寺)


十余年前、初めて「笹無山」を訪れた。
山は笹で覆われ、800年の月日を感じた。


撮影日・2017年3月12日





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菅茶山

2021年04月07日 | 銅像の人
場所・広島県福山市神辺町湯野 「菅茶山記念館」



「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

菅茶山

同時代の学者・文化人から「当代一等の詩人」と評された菅茶山。
出自は農民身分ながら、寛政の改革を行った松平定信の別邸に招かれるなど、当時の人々から多大な尊敬を集めた人物である。

茶山は1748年備後国安那郡北川村で生まれた。
実家は農業とともに酒造業を営む裕福な家庭で、父は俳諧をたしなむ人物だった。
父の影響もあり、茶山は俳諧を学ぶようになると、和歌や漢詩にも興味を持ち始め、やがて本格的に学問に志すようになる。
19歳の時から京都・大坂に遊学。
当時一流の学者・文化人らと交流を深め、1781年頃には、神辺に私塾を開いて村の子供たちに学問を教え始めた。
この私塾は後に福山藩にう献上されて藩の郷塾となり、「廉塾(れんじゅく)」という名で全国に知られるようになる。
茶山は遊学中からその詩才が高く評価され、1812年には詩集「黄葉夕陽村舎詩」を刊行するや、これがベストセラーになり、
冒頭の「当代一等の詩人」の地位を確立する。
当時の神辺には、茶山を慕って全国各地から学者・文化人・生徒らが訪れたという。








「広島県の歴史」 山川出版社 1999年発行

菅茶山と廉塾

茶山は折から武士教育の重要性を認識した福山藩からたびたび儒員として登用する意向を伝えられ、扶持米をあたえられたが
官にはつかえず生涯神辺の地にあって民衆教育に専念した。
塾の私物化をさけ、その永続をはかった。

茶山の塾はしだいに有名なものとなり、
備後地方はもとより、中国・四国・九州・近畿さらには奥羽地方からも学生が遊学してきた。
その出自は武士から医者・僧侶・豪農商の子弟など330余人にのぼっている。
寛政から化政期にかけて、茶山はわが国第一等の詩人と称された。

親友頼春水の子山陽が、茶山の後継者として廉塾にきたのは文化6年(1809)のことであった。
しかし山陽は不行跡をして茶山を困らせ、結局1年余りで京都へ行ってしまう。
茶山の教育方針にもっとも反する人物であった。

茶山は廉塾の経営安定に心をくばった。
塾生がおさめる授業料はすべてたくわえて塾田をふやしていった。
塾田は茶山没後には171石になっている。

茶山没後、廉塾は甥の子である管三が継ぎ、明治維新まで存続した。




撮影日・2019年3月1日





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田辺朔郎像

2021年04月07日 | 銅像の人
場所・京都市左京区南禅寺草川町


琵琶湖疎水で有名な田辺朔郎。




【京都市公式】京都観光Navi

田辺朔郎
たなべさくろう
土木工学者。琵琶湖疏水の設計、工事監督者。
江戸生まれ。工部大学校卒業とともに京都府御用掛となり、疏水工事を完成。水力発電所設置を成功させた。
東京帝国大学教授。のちに京都帝国大学教授。第2疏水、水道など京都市三大事業にも尽力。
墓は東山区、市営大日山墓地。
蹴上公園に銅像。
1861(文久1)~1944(昭和19)





明治2年の「東京遷都」によって、急速に衰退した京都復興のため、
第3代京都府知事北垣国道は、琵琶湖と宇治川を結ぶ水運を開き、
同時に上水道、水力発電、灌漑、防火などに利用する琵琶湖疎水の一大プロジェクトを計画した。
工部大学校(現・東大工学部)を卒業したばかりの田辺朔郎を、工事責任者に起用した。
この琵琶湖疎水工事は、設計も工事もすべて日本人による初の大土木事業であった。
古都京都は、いち早く近代化に着手し、このプロジェクトから日本初のさまざまな事業を展開している。



琵琶湖と京都市の標高差は約40mあり、琵琶湖疎水はこの標高差を利用した総合計画である。
第一疎水は明治18年(1885年)に着工され、明治23年に鴨川落合まで完成した。
大津市三井寺前の取水口から蹴上に至る。
蹴上は船溜まりで、ここから南禅寺船溜まりまで船はインクラインに載せられた。
第二疎水は電力需要と上水道のために明治41年に着手45年に完成した。
蹴上浄水場は、このとき造られた。
汚染防止に全線暗渠とされた。
この疎水の水は、水道水の他、発電、防火など京都市民の生活を現在も支えている。

「近代の産業遺産をたずねる」 日本修学旅行協会 山川出版社 2011年発行











撮影日・2010年4月8日



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三木武吉

2021年04月07日 | 銅像の人
場所・香川県高松市  栗林公園


保守合同で有名な政治家。栗林公園に銅像が建っている。


(Wikipedia)
保守合同

1955年(昭和30年)4月13日、三木は保守政党の結集を呼びかける。
三木は、社会党再統一に危機を抱いていた。
また、この時期、医者から癌のため余命もって3年を宣告されていた。
三木は党内合意を取り付けに動くと同時に、自由党に工作を開始する。
5月15日、三木は自由党総務会長の大野伴睦と会談を持つ。
三木は浪花節と愛国の情をもって、巧みに大野をかき口説き、大野の賛成を得る。
岸・三木・石井・大野四者会談が持たれ公式に自由・民主両党間で保守合同に向けて動き出す。
これに対して民主党内では三木武夫、松村謙三らが保守二党論をもって反撃する。
最後に総裁に誰がつくか平行線をたどった。
結果、総裁を棚上げし、困難と思われた保守合同が成し遂げられ、日本初の統一保守党・自由民主党が結成された。
三木は、鳩山、緒方、大野とともに総裁代行委員に就任した(5ヵ月後、鳩山が自民党総裁に就任)。
1956年(昭和31年)4月から病床に臥すようになり、7月4日に東京・目黒の自邸で死去。享年71。






三木武吉

「昭和怪物伝」  大宅壮一著  角川文庫 昭和48年発行

三木武吉氏は明治17年、香川県高松市に生まれる。
早稲田大学の前身東京専門学校を卒業し、明治40年弁護士開業。
大正6年より衆議院議員に連続6選。
昭和14年報知新聞社社長。
昭和17年、21年の総選挙に香川県より当選したが追放となる。
昭和26年追放解除以来、
保守合同の立役者として活躍し、昭和31年没。


彼は終始鳩山をかついできたが、別に鳩山から恩恵をうけたわけでもなければ、
鳩山に心服しているわけでもない。
三木は政治的理想を実現する手段として鳩山を使っていたと思われるフジがある。

伝説めいた話もつたわる。
ある演説会場で、
「あなたは妾を5人もおもちだそうですが、指導的地位にあるものとしていいのですか」
これに対し、
「5人というのは間違いで、実は6人です。

吉田調伏や保守合同が、曲がりなりにも成功するにいたり、一時鳩山引退後の次期総裁までが、
彼の方にころがみそうな形勢になってきた。









撮影日・2015年11月28日



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軍神広瀬中佐

2021年04月06日 | 銅像の人
場所・大分県竹田市 広瀬神社

子どもの時、母の話に度々登場する人物の御三家。
楠木正成、爆弾三勇士、広瀬中佐。

なんど聞いたことだろう~杉野はいずこ、杉野はいずや





大分県HPより

竹田市広瀬神社の鳥居前に建つ広瀬武夫の胸像。
全身像(M40.4渡辺長男作)をもとに製作し、昭和48年3月に設置された。
日露開戦間もない明治37年早春。
日本海軍は旅順港内のロシア太平洋艦隊を封殺するため、閉塞作戦を実施した。
旅順港入り口に老朽船を沈め、敵の航路をふさごうという危険な作戦である。
軍艦「朝日」の水雷長(当時少佐)広瀬武夫は、この決死隊指揮官として二度にわたって出撃した。
二度目の出撃のさい、予定地点で福井丸の爆薬に点火、
退避するが部下の杉野兵曹長の姿がないのに気付き、沈みゆく福井丸にとって返し、ついに散弾に斃(たお)れる。37歳であった。
広瀬は明治元年、竹田市の士族の二男坊に生まれる。
兄も海軍軍人。
海軍大尉時代にロシア駐在武官となり、この間ヨーロッパ各国を視察した。
漢詩を愛し、ロシア語に熟達、講道館柔道に熱中(六段)する。
風雲渦巻く明治という時代を太く短く生きた男だが、軍人にしては珍しい幅広い視野を持っていた。
滞露中、ロシアの子爵令嬢から惚れられた話は有名である。
若い頃は侠客清水次郎長ともつき合いがあった。
人間広瀬の周囲にはいつもほほえましい話題が尽きない。







「広瀬中佐の銅像」 もりたなるお  新人物往来社 2002年発行

(・・昭和15年2月東京神田の銅像前・・)

「広瀬武夫海軍少佐は、過ぐる日露戦争において、敵国ロシヤの東洋艦隊の基地たる旅順港閉塞に従事しました。
朝日水雷長たりし広瀬少佐は、連合艦隊司令長官の命により、閉塞船指揮官として勇躍出撃したのであります。
広瀬少佐は出撃に当たり
『一死心は堅し。再び成功を期す。笑いを含みて船に上る。七度生まれて国に報ぜん』
の詩を残したのであります。

広瀬少佐らが指揮する四隻の閉塞船は、敵国ロシヤの砲台及び哨戒艇より撃ちくる弾雨をもろともせず、猛虎の勢いをもって旅順港に突進し、
一番船、二番船、三番船とも爆沈して、港口閉塞の目的を達しつつありました。
そして四番船は敵の駆逐艦と衝突し、さらに敵の魚雷を受けて爆沈。
爆沈せし船の乗員は短艇に移ったのでありますが、上等兵杉野孫七の姿がありませんでした。
部下思いの広瀬少佐は、沈没しかかる閉塞船に飛び移り、杉野上等兵曹を捜し求めたのであります。
船内をくまなく捜せど見えません。
船はみるみる沈んでいきます。
もはやこれまでと短艇に移りました。沖合いに向けて脱出する短艇に、敵哨戒艇より発する弾丸が雨あられと降りそそぎ、
その一弾が広瀬少佐の頭部を貫いたのです。
もんどりうって海中に没し、再び浮き上がりませんせした。

時に37歳、壮絶非絶なる忠死は大本営に達し、中佐に昇級し、功三級金鵄勲章ならびに勲四等旭日小綬章を授けられ、正四位を賜りました。
また杉野孫七上等兵曹も兵曹長に進級し、いくつもの栄誉を下賜されました。
人々は軍神広瀬中佐とその名を称え、長くその勲功を記念すべく建立されたのがこの銅像であります」

説明が終わるまでに見学者が次々ときて、先にいる人たちと入れ替わった。
写真屋がいて、銅像を背景にして記念写真を写す人が順番待ちをするほど繁昌している。

「はい、写しますよ」の合図でシャッターを切った。
二度写して記念撮影が終わると、生徒たちは緊張がほぐれた。

二列縦隊で歩き出した時、級長が広瀬中佐の歌をうたい出した。


轟く砲音飛来る弾丸
荒波洗うデッキの上に
闇を貫く中佐の叫び
杉野は何処 杉野は居ずや


唱和は広がり、全員の合唱になった。
歩く生徒の列に、拍手する人もいた。







戦犯美術

昭和31年7月に、経済企画庁は”もはや戦後ではない”と結語に記した。
新聞記者奈川は、戦犯銅像の取材を担当することになった。

「銅像にまで戦争犯罪が及ぶのですねかね」
「戦争意識を煽ったもののようです」

調査部の部屋に、戦犯銅像の資料があるか聞いた。
切り抜きのスクラップ帖があった。
昭和22年2月30日の日付スタンプあった。
大村益次郎のカット写真がついた記事だった。
”「軍服銅像」いよいよ追放--残るか「大村益次郎」”
という見出しがついている。

「かつての超国家主義や軍国主義を国民にふきこんだ銅像や記念碑、忠魂碑などの撤去の基準を決める

『忠霊塔、忠魂碑等の撤去審査委員会』は、2月28日顔ぶれを決定。
3月早々に審査に取り掛かるが、各所の忠魂碑など既に取りはずしがはじまったものもある。
都内の銅像、記念碑等は戦時中200余とおしえられ、そのうち軍服姿のいかめしいのが4、50、
それらはただ侵略主義、軍国主義の宣伝に一役買っただけで美術的に価値はないものが多い。

芸術的価値のあるものは、戦時中に軍需物資として供出し、溶鉱炉に投げ込まれてしまった。
残っているのは軍事色の強いものばかりであった。
ほとんどが追放されるものと考えられる。
さて、それらの銅像であるが、
皇居前の”楠木正成”、靖国神社の”大村益次郎”、須田町の”広瀬中佐、杉野兵曹長”をはじめてとして云々」



渋谷といえば駅前のハチ公が有名だ。
ハチ公銅像は忠犬ハチ公ともいったのを覚えている。
「忠義の犬ということだと・・・」
ふと考えた。
戦犯銅像は忠義の士が指定されるという。
そうなると忠犬はどうゆうことになるのか。

忠犬として称えられたハチ公は、戦争中の金属不足のために溶かされて兵器にされてしまった。
忠臣楠木正成や忠勇義烈の広瀬中佐像は供出を免れたが、同じ忠義でもハチ公は飼い主に忠義だったから残されなかったのか。

天皇陛下のために戦って忠義を尽くしたからだ。
天皇陛下に忠義を尽くした者が戦犯像ということで、それでいいのか。
逆臣とされる足利尊氏の像や、皇位を盗もうとした弓削道鏡の像はおかまいなしなのか。
わからないのは審査結果を待たずになぜ取り外しをはじめたのかである。

T大学副学長東川教授に取材に行った。
副学長は、
「たとえば東郷元帥銅像ですが・・・これが建つのは日露戦争が終わってからのものでしょう。
楠木正成にいたっては600年前の武将です。
今度の戦争とは無関係です。
像も古典作品のはずです。

上海事変の時の肉弾三勇士や、真珠湾攻撃の九軍神像といったものは、
東京裁判が扱った侵略戦争に関係しますから、これは戦犯銅像だということになるでしょうがね」



「広瀬中佐の銅像はいかがですか」
「これも東郷元帥同様に日露戦争のときでしょう。
東京裁判の対象範囲外とみるほうが常識的ですがね」

「戦犯像指定の理由は、軍国主義や侵略戦争を鼓舞した銅像となっています」
「そうゆうことなら、楠木正成銅像も広瀬中佐銅像も、それから九軍神も同一ですね。
しかし・・・占領軍が個別にいちいち指定してきたのだろうか」

奈川は東京都庁を訪ねた。
図書室に案内され、謄写版刷りの公文書を見せられた。

渉外部長からGHQ関係者宛に提出したものだった。

昭和22年3月24日
忠霊塔、忠魂碑等の撤去について
左記の通り報告します。
撤去したもの
「銅像」 大楠公、乃木大将、東郷元帥他。
撤去に着手したもの
「忠魂碑」「日露戦争記念碑」他。
「銅像」 肉弾三勇士、東郷元帥他。
「灯篭」「日清戦争戦勝記念碑」他。
審査を要するもの
「銅像」 北白川宮殿下、有栖川宮殿下、大山巌、東郷元帥、広瀬中佐、大村益次郎、榎本武揚他。
「碑表」 八紘一宇、紀元二千六百年他。
以上撤去したもの16件、着手したもの16件、審査を要するもの26件

元都職員、現区会議員の自宅で取材をした。

「学校、神社、役場、公園、それから個人の所有地、墓場にある戦死者の供養塔などを加えるとたいへんな数になりました。
そのなかから主なものを選び出したんです」
「銅像に関しては基準があったんですか」
「軍国主義がいけないということで、軍服の銅像を目安にしました」

「東郷元帥ですが、軍服以外の銅像もありましてね。私服のものは対象外にしてもいいのではと」

「靖国神社の大村益次郎ですが、この人は明治政府の軍務官判事です。
維新政府の軍制を確立した歴とした軍人ですから、撤去の対象にはなりました。
しかし大村益次郎像は、刀は差しているけど羽織袴姿で完全な武装とはいえません。
リストには残しましたがどうしたものかと議論もあったです」

「そうすると上野の西郷さんは」
「西郷隆盛は日本最初の陸軍大将ですからね、当然リストアップされました。
しかし着流しで犬を連れて散歩をしている像です。
復権はしましたが賊軍の大将という汚名を着せられた経緯があるので、最終的には外しましたね」

「忠霊塔、忠魂碑等の撤去についての,GHQの指令はどういうものだったんですか」
「軍国主義、侵略主義を象徴したもの、鼓舞するために置かれたものは、これを目撃出来ないような措置を取るべしといった意味のものだったと思います。
人目につかないように措置するということなので、背丈の低い記念碑の類は、覆土したものもあったらしいです」


・・・

もう一度都庁へ取材に行った。
「戦犯像の、撤去処置をしたときの記録がありません」
「昭和22年といいますと占領下のもっとも不安定なときでしたから、
あるいは撤去命令だけで、その後の処置についてはなんの指示もなかったのかもしれません」

・・・

「広瀬中佐の銅像」  もりたなるお   新人物往来社  2002年発行







撮影日・2013年2月21日



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大石内蔵助

2021年04月01日 | 銅像の人














撮影日・2018年12月14日
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5・15事件、統帥権干犯

2021年04月01日 | 昭和元年~10年
5・15事件 日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 


この事件はあくまで、それに先だつ
10月事件・3月事件、血盟団事件、その後につづく神兵団事件・226事件という一連の事件の関連の中でとらえなくては、明らかにできない。
犬養内閣でなくても、このような事件はおきたであろう。

犬養内閣は、陸軍青年の憧れの人ともいえる荒木貞夫を陸相とする内閣であった。
では、なぜに政党というものは彼らの目の敵にされたのであろうか。
5・15事件の檄文に、
「日本国民よ!刻下の祖国日本を直視せよ。
政治・外交・経済・教育・思想・軍事、
何処に皇国の姿ありや。
・・・
天皇の御名において君側の奸を葬れ。
国民の敵たる既成政党と財閥を倒せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を打破せよ!
農民よ労働者よ全国民よ、祖国日本を守れ。
起て!起って真の日本を建設せよ」

と既成政党とそれと結んだ財閥が日本を堕落させた元凶だと思い込んだのである。
だから犬養内閣であろうとなかろうと、殺される運命にあった。

それというのも、打ち続く凶作で、農村の貧しさは極限に達していた。
岩手県では餓死するのみという農家が10万戸のうち7万7千、全人口の半数に達する始末。
ナラ、トチの実を袋に入れて持ってくる児童。木の実まで不作で持ってくることのできない児童。
教室で空腹のあまり卒倒する学童は100人にのぼる有様。
娘を東京方面に売る者は後をたたない。

日本の政治経済をたてなおすことは左翼右翼に関係なく、当時国民の待望するところであった。
日本の農民を救うことを目的としていた。

事件は海軍将校有志を中心として、陸軍士官候補生の有志、血盟団残党、愛郷塾一派、が起こした。
4組に分かれて襲撃、
東京を暗黒街にするという目的は果たさなかった。
引き揚げた後東京憲兵隊に自首。
成果はあまりに少なく、単に犬養首相を殺したにとどまった。
ただ、その空気に軍部が便乗し軍部独裁への道をひたばしることになった。




統帥権干犯 日本の歴史14」研秀出版 1973年発行 


1930年(昭和5)1月から4月まで、
ロンドン海軍軍縮会議は、統帥権問題などはまったく論議のまとになっていなかった。
ところが幣原外相の外交演説が導火線になり、軍令部は無視の越権行為であり統帥大権を侵犯するものだと非難した。



犬養政友会総裁や鳩山一郎は軍令部の後押しをした。
政党人である犬養や鳩山が軍令部の主張を支持して政府を攻撃するなどは政党政治の自殺行為であった。



議会は連日統帥権論争に終始し新聞は派手にこれを報道した。
軍令部長は統帥大権侵犯を糾弾する上奏文をもって直接天皇に辞意を表明した。
6月、軍令部長と海軍大臣は意見の一致を必要とする覚書を確認し一応落着した。

11月14日、陸軍大演習に参加の途次浜口首相は右翼青年・佐郷屋留雄に射たれて重傷を負った。
”屈辱条約締結と統帥権干犯”がその動機であった。


・・・・





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てくちゃん りんちゃん

2021年04月01日 | 銅像の人
場所・奈良県天理市  JR天理駅



てくちゃん・りんちゃんは、天理市のマスコットキャラクターだそうだ。
名前の由来は、天理教の教義の中から転用したのだろう。











撮影日・2015年4月24日


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