しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

山中鹿之介像

2021年04月11日 | 銅像の人
場所・島根観安来市広瀬町
建立・1978年(昭和53年)



「尼子十勇士」の筆頭

尼子氏再興のために毛利氏と戦い、織田信長に支援を求めるなどの奮闘をみせる。
「我に七難八苦を与えよ」と祈った逸話が残る。

「日本の銅像完全名鑑」 広済堂出版 2013年発行









山中鹿之介

山中鹿之介といえば、戦前には講談はもとより、教科書にまでのった話は有名である。
山の端にかかる三日月をあおいで、
「われに七難八苦をあたえたまえ」
と祈ったという場面である。

主家再興のために骨をくだいて奔走する姿が、戦前の忠君愛国の精神教育に格好の題材となったのである。
彼の人生ドラマを華やかにいろどるのは、主家尼子家再興のために戦う、その執拗なゲリラ活動にあるだろう。

「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行






撮影日・2020年10月28日



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吉川経家

2021年04月11日 | 銅像の人
場所・鳥取県鳥取市  鳥取城跡


戦国の世でも、因幡鳥取城の籠城ほど人間性が極限まで追い詰められたものはまれであろう。
羽柴秀吉の大規模な包囲作戦で、城は完全に飢餓地獄におとされ、人肉をくらうという未曽有の事態が発生したのである。







当時の記録は、その模様をなまなましくつたえている。
「・・・・稲かぶを上々の食物とし、のちにはこれも尽き候て、牛馬をくらい、霜露にうたて弱き者は餓死・・・」
痩せ細った歩行も困難な男女が、城の柵ぎわにすがって、包囲軍に助け候えと泣き叫ぶのである。
それに容赦なく寄せ手の銃火が集中する。
撃たれた者がまだ息もあるというのに,城内のものどもが、手に刃物をもって、むらがり、あらそってその肉を切りとった。
「・・・身体のうちにても、とりわけ頭はよき味とみえ、頭をこなたかなたへ奪い取り逃げ候・・・」

秀吉の「渇殺し、槍も刀もいらず」という兵糧攻めの典型がこの鳥取城に対して行われたのである。
味方の兵を失わず、相手の自壊をまつ、ただし時間がかかる。
この攻城戦は、落城までに半年を要している。








総大将自刃に対し、秀吉は食べ物を与えた。
飢餓状態のあとの食物のため、胃や内臓がちじんでいるため、一度に食べて頓死する城兵が少なくなかった。


「戦国武将100話」  桑田忠親 立風書房 1978年発行




訪問日・2020年10月14日




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徐福 

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・和歌山県新宮市




不老不死の仙薬。---
始皇帝はますますそれに強くあこがれるようになった。
徐福の上書に許可を与え、巨額の費用を出したのは、28年のことであった。
同じ年に仙人さがしを命じている。
だが3年たっても、仙人も仙薬もみつからない。







始皇帝の行列は,会稽から呉にむかい、長江を渡り、山東半島半島南部を目指して進んだ。
徐福に命じておいた不老不死の仙薬について、詰問し、催促することにあった。
曲者の徐福、
もちろん予想される詰問に対する返答を用意していた。

第一は、暴風。
風波に負けぬ巨船が必要とするので、そのため歳月を要した。


この徐福はえらい人物である。
六国を滅ぼして天下を統一した始皇帝を、仙人だの仙薬をさがすだのといって、だまくらかして、財物をまきあげた。
凡庸な人間にできることではない。



・・・






和歌山県の新宮市と熊野市に、それぞれ徐福の墓がある。
童男、童女をのせた彼の船隊が、熊野灘沿岸に着いたと言われている。

「小説 十八史略」 陳舜臣 毎日新聞社  昭和52年発行








撮影日・2013年6月5日


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天草四郎

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・長崎県島原市  島原城





「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行

島原の役

寛永11年から3年間、九州の涯、島原領と天草領では凶作がつづき、飢饉がおこった。
14年の春からは餓死する者がふえた。
麦も出来ず、夏は、旱魃で田は地割れし、苗一本育たない。
盗賊が横行して人心が動揺し、不安は高まった。
不安に流言はつきものだ。流言は流言を生み、人々の恐怖をさらに煽った。

将軍家光の病状も入っている。
実は死亡したのではないかという風説がたった。
家光の不例を背景にして、紀州さまが謀反をおこされるの、牢人衆が一揆をおこすのという評判が伝わった。

九州ではさらに不思議な天然現象がおこった。
秋に入ったというのに、まるで春の花が狂い咲いた。

この地方は、旧領主有馬氏以来、切支丹信仰が民衆の間にしみこんでいる。
次の利用主松倉重政は、過酷な民政をしいた。
今こそわれらは伴天連を信じて、年来われらを苦しめてきた松倉重政と天草島を支配する寺沢家に対して一揆をおこすときだ、と、圧政に苦しむ百姓たちが立ちあがったのが、
そもそも島原役のはじまりだ。

この一揆の総大将として、みなから擁立されたのが、島原領大矢野村の庄屋益田甚兵衛の一子、四郎時貞という美少年だった。









原城

島原の乱、原城跡は、いまはもう一面芋畑です。
丘があり、ちょっとした石垣が残っています。

オランダは、ちょうど平戸に二艘あり、一艘は大急ぎで南へ領海を離れる。
幕府の命令で一艘は砲撃にあたる。いやいやながらでしょう。

「歴史よもやま話・上」  池島信平  文春文庫 1982年発行









天草役は幕府に種々の教訓を得させた。
原城の指揮をとったのも牢人なら、包囲軍のなかでも牢人たちがここぞ出世の機会とばかりに、奮戦している。
大坂の役後、諸大名の改易によって失業した浪人群の脅威を目の当たりに見た幕府は、これ以後浪人取り締まりを厳重にするようになった。

幕府はその実力低下を満天下にさらした。
また、それに劣らず、諸大名の武力低下も暴露された。

世はいよいよ泰平となり、のち幕末の自己崩壊を迎えるのである。





撮影日・2012年5月8日


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伊藤大孝~ビルマ戦線~

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・岡山県笠岡市神島


氏は長く岡山県議を務め、また日本遺族会の役職をされた。
笠岡市名誉市民。




「人生不屈」  伊藤大孝  昭和61年発行


ビルマ戦線

ペグー山系

師団は6月16日転進を開始した。
ペグー山系は標高300m、山幅60km内外の竹林を主とする人煙まれな山なみである。
この山中に糧秣を求めることは至難であった。
そのため、パウカン平地では敵と戦いながら、籾集めに命をかけて行動した。
ペグー山系突破の日数は約1ヶ月と予定されたが、
各自40日分の食糧の携行を命ぜられた。
芋・もみがらをとってきてドンゴロスや一斗缶に入れるのであるが、
兵器弾薬のほか、このカンを背負えないものは餓死するといわれた。

それからが過酷な行軍であった。
竹林の中、チークの大木で、昼間も薄暗い気持ち悪さ。
道もなく、連日の雨で一面泥濘。
数々の激戦で将兵の被服や靴はぼろぼろ、大半がハダシとなった。
小石と砂利の山道を切り開いて進んでいく。

山中では、草の根を掘り、毒のありなしを調べたり、夜はタケノコを焼いて食べた。
疲れ果てた体を笹で覆い、どしゃ降りの中をうたた寝した。
コレラ、デング熱が流行し、戦友の命を次々と奪い去った。
100m行くごとに1人か2人が死んでいった。

苦難を乗り越え、6月30日、ペグー山中コピューテに出征以来はじめて聯隊のみんなが一ヶ所に集結した。
だが、生存者1.000名、悲しいかな、人員損耗率73.6%だった。





はだしで六百里

ジャングルの中を通った。
雨季のビルマは雨また雨である。
われわれはただ歩いた。
”日本へ帰りたい。
もう一度この足で祖国の土を踏みしめたい!”
ただもうこの一点であった。

食べものはもちろん、着るものも足にはくものもなくなった。
裸足になって、太陽の昇る方向へ向かって、東へ、東ヘと、一足でも祖国日本へ近づこうと、六百里歩いた。
ぼろ布をまとい、食べ物は夜、民家の籾や鶏を盗んだりしてあらゆるのを食べた。
私はどれだけ多くの戦友たちの最後を見届けたことであろうか。
しかしながら、その戦友たちを手厚く葬る余裕すらなかった。

8月27日、南ビルマのミンランタゼイクの山の中に到着した。
ここで聯隊は師団の将校から終戦(8月15日)に関する大詔、および各殿にわたる処置命令を受領した。
聯隊長は将校全員を集め、涙をのんで軍旗奉焼式を行った。
聯隊は9月5日、現地英軍によって武装を解除され、収容所に入った。


収容所では自活自存のために食糧供給の代償として、連合軍の要求する労務に従事することになった。
22年5月末、祖国へ帰る復員船が来た。
6月10日、日本丸に乗船し、6月29日宇品港に着いた。
似島検疫所で検疫などをすまし、7月1日宇品に上陸した。
翌7月2日歩兵第154聯隊は解散。
私たちは戦死した英霊を追悼しその遺徳を顕彰して、日本復興に挺身することを誓い合った。







撮影日・2008年12月7日



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大国主命と因幡の白うさぎ像

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・鳥取県鳥取市白兎  道の駅「神話の国白うさぎ」






鳥取市の西のはずれ、
白兎海岸はその名のとおり、神話「因幡の白兎」の伝承地である。
波静かな砂浜が無垢の美しさでひろがり、海を見わたせば、兎の住んでいたという淤岐ノ島が兎の形で浮かび、
そこからワニの背を思わせる岩礁が波間に見え隠れに陸地の気多崎へと通じている。

いまの子どもたちはもうユーモラスな兎とワニの物語も、「大こくさま」の唱歌も知らないという。
その歌曲碑が潮風に吹かれて浜辺に立っている。

「歴史と旅」  昭和57年2月号  秋田書店









撮影日・2020年10月14日   




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山岡鉄舟

2021年04月10日 | 銅像の人
場所・岐阜県高山市







「日本剣豪100選」 綿谷雪著 秋田書店 昭和46年発行  

山岡鉄舟高歩


山岡鉄舟は天保7年、本所大川端通いに六百国の旗本の五男として生まれた。
通称鉄太郎、後に鉄舟と号した。
鉄太郎11歳の弘化2年に父が高山代官所に赴任したので高山に行き、17歳までそこに過ごした。
20歳の時、山岡静山の門に入り槍術を学び技術・思想の上で大きな感化を受けたが、いくばくもなく静山は死去し、
望まれてその長女英子の婿として山岡家に入った、
英子15歳、鉄太郎20歳であった。

明治元年、西郷隆盛と会見して江戸を焦土から救った。
江戸開城後は、徳川慶喜にしたがって駿府に移り民政をつかさどった。
後に明治新政府に出仕した。子爵に叙せられた。
明治21年、53歳にて死去した。













撮影日・2016年2月3日







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川中島の戦い

2021年04月09日 | 銅像の人
場所・長野県長野市小島田町  川中島古戦場(八幡原史跡公園)
建立・1969年(昭和44年)

川中島の合戦は小学校にあがる前に、パッチンで知っていた。
漫画・小説・テレビ・映画でいろいろ合戦シーンが登場するが、
一番、印象に残っているは映画「風林火山」。

三船プロ制作「風林火山」で、川中島では
中村錦ちゃんが武田信玄、石原裕ちゃんの上杉謙信。
馬上から裕ちゃんが斬りつけると、錦ちゃんが座ったまま軍配で受け止める。
あのシーンは見ごたえあった。
後で思ったが、あの映画で裕ちゃんのセリフは一つもなかった。







「私説・日本合戦譚」 松本清張  文春文庫 1977年発行

川中島の戦

川中島の戦といっても、今の青少年にはあまり分からぬ。
筆者の子供時代の絵本とえば、必ず武田信玄と上杉謙信の一騎打ちが、極彩色で載っていたものだ。
床机に腰かけ、諏訪法性の兜をかぶった信玄が、馬上で襲いかかる謙信の太刀を、軍配で受け止めている図だ。

何となく謙信が勇ましく、信玄は小狡くみえた。
信長や秀吉に人気があり、家康に人気がないのと似ている。
実際、家康は信玄から民治など学んでいるので、性格も似通ったところがある。

川中島の戦いは、戦前だと琵琶歌などに歌われ、特に頼山陽がこの戦いに詩を作ってから、
日本合戦史の華のように思わてきた。
また、謙信と信玄の組合せが、山陽などに竜虎にたとえられたから、
横綱同士の四つ相撲みたいに思われているが、
事実は謙信の方が信玄にくらべて大ぶん見劣りがすると思う。









武田信玄対上杉謙信像
川中島の一騎討ち



戦国時代の名シーンといえる川中島合戦の一騎討ち。
武田軍の本陣に攻め入り馬上から斬りつける謙信と、
それを軍配で受ける信玄という一騎打ちの場面を再現している。
NHK大河ドラマ「天と地と」の放映を記念して立てられた。
建造から40年以上経ち、破損も目立つが、迫力はいささかも衰えていない。

「日本の銅像完全名鑑」 廣済堂出版 2013年発行





撮影日・2014年7月19日





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山内一豊

2021年04月09日 | 銅像の人
場所・高知県高知市丸ノ内






山内一豊

高知城を造ったのは山内一豊である。
山内一豊といえば、妻のへそくりで名馬を買ったことで男をあげ、
掛川五万石の城主にまで出世したことで有名なあの山内一豊である。
一豊は徳川家康にもうまくつかえ,慶長5年(1600)に土佐一国二十万余石を与えられたのだ。
その一豊が10年かけて造ったのが高知城。

一豊の銅像は、この前の戦争の時に供出され、長らく不在のままだった。
それが、平成8年に再建され、追手門をくぐる前の、県立図書館の前に建っていた。
武具をつけ、槍を持って馬に乗る勇壮な銅像である。

それにしても面白いのは、
戦争の時に、一豊の銅像は供出されたのに、竜馬の銅像は供出されなかったということである。
追手門をくぐってすぐ広場の一角に、板垣退助の銅像がある。
そして、石段をあがっていった三の丸跡の広場の隅に、一豊の妻千代と馬の銅像がある。
説明を読むとこれは、高知商工会議所の婦人会が建てたものだそうだ。

いづれにしろ、
どうも高知の人は銅像好きである。
人材が多く出た、ということもあるのだろうが、あちこちに銅像があるのだ。


「銅像めぐり旅」 清水義範著 詳伝社 平成14年発行











撮影日・2007年8月11日



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武市半平太

2021年04月09日 | 銅像の人
場所・ 高知県須崎市浦ノ内 「武市瑞山銅像」
制作・原寛山
設置・昭和61年


土佐の最下級武士の岡田以蔵が、いわれるまま「人斬り」をして、最後には虫けらのように磔刑で死んでゆく。
命じる武市に仲代達也、以蔵に勝新太郎、薩摩の人斬りに三島由紀夫が出演した。
話題作で公開時に映画館で見たが、印象深い活劇映画だった。








「歴史の中の日本」 司馬遼太郎  昭和51年  中公文庫

武市半平太ーー映画「人斬り」で思うこと


橋本忍氏が、拙作の『人斬り以蔵』という短編を参考にされ、
五社英雄監督とともにひとつの映画世界をつくられたのが映画「人斬り」である。
私は参考人程度である。
脚本を読んでみると、さすがにおもしろい。


陰謀と暗殺、
これに手を染めた者は、洋の東西を問わず歴史の審判はおそろしく悪い。
暗い不浄者の扱いをうける。
明治後、東京の土佐人の間で「土佐の吉田松陰」などとその死後の名を顕揚されたことがあったあが、
その評価は一般化しなかった。
松陰がもっている独特の文学性と思想性が武市に欠けていたことにもよるが、
最大の欠陥はかれが暗殺団を組織し、その黒幕になっていたということであった。

罪状否定のまま武市は腹を切らされるのだが、
切腹は、江戸三百年のあいだこれほどみごとな例はなかったかもしれない。
武市の革命家としての暗さは、人柄のよさと、
この最後のみごとさによって一挙にすくわれているような感じである。

つまるところ、武市らを首領に岡田以蔵らがやったテロリズムというのは、
武市が期待した効果などは少しもなく、白痴の政治活動におわったし、
むしろ大反動をまねきよせたという点で、逆効果の方が大きかったようにおもわれる。
テロというのは、本来、そういうものなのである。











撮影日・2012年4月4日


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