静岡の婆さんが死んだ。日曜日は早朝の新幹線で静岡へ向かい、実家で葬儀。
葬式はホールのような場所ではなく、実家に祭壇が組まれた。こんな葬儀をウチでやるのは爺さんが死んだ20数年前以来で、近所の人、親戚縁者からオヤジの関係者まで多くの人が集まった、わりといい葬式だったと思う。懐かしい人、懐かしい場面や場所に出会えた。本葬は輔苦離往生仏(ぽっくりさん)が祀られている見性寺で行なわれた。ここもまた懐かしい。
静岡にいた頃、テレビで新日の「ワールドプロレスリング」が始まると、いつもオレを呼びに来るほど、プロレスとアントニオ猪木が好きな婆さんだった(一緒に見ていたのは猪木の異種格闘技戦前後から初代タイガーマスク、維新軍あたりまでか)。そのくせ猪木のことを「イノキ」と言えずに「ユノキ」と呼んでいた婆さんだった。オレも「婆ちゃん、ユノキじゃないよ!イ・ノ・キ!」とよく言っていたものだ。
そして婆さんのいる家は、いつも良くも悪くもプロレスのような状況になっていた。ホントにプロレスみたいな婆さんだったと思う。
婆さんは92歳で死んだ。あんな婆さんでも100年は生きられないのだ、と思うと人間というのはやはり儚いものである。
深夜に帰宅。ちょっと仮眠してから原稿を1本まとめる。疲れた。
葬式はホールのような場所ではなく、実家に祭壇が組まれた。こんな葬儀をウチでやるのは爺さんが死んだ20数年前以来で、近所の人、親戚縁者からオヤジの関係者まで多くの人が集まった、わりといい葬式だったと思う。懐かしい人、懐かしい場面や場所に出会えた。本葬は輔苦離往生仏(ぽっくりさん)が祀られている見性寺で行なわれた。ここもまた懐かしい。
静岡にいた頃、テレビで新日の「ワールドプロレスリング」が始まると、いつもオレを呼びに来るほど、プロレスとアントニオ猪木が好きな婆さんだった(一緒に見ていたのは猪木の異種格闘技戦前後から初代タイガーマスク、維新軍あたりまでか)。そのくせ猪木のことを「イノキ」と言えずに「ユノキ」と呼んでいた婆さんだった。オレも「婆ちゃん、ユノキじゃないよ!イ・ノ・キ!」とよく言っていたものだ。
そして婆さんのいる家は、いつも良くも悪くもプロレスのような状況になっていた。ホントにプロレスみたいな婆さんだったと思う。
婆さんは92歳で死んだ。あんな婆さんでも100年は生きられないのだ、と思うと人間というのはやはり儚いものである。
深夜に帰宅。ちょっと仮眠してから原稿を1本まとめる。疲れた。