徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

振り上げた拳の降ろし所がないという気持ちはわかる、が…

2010-11-19 20:53:18 | News
<勝ち組、負け組>のような俗語の誤解釈や誤用は、言葉の意味や使用法が時代によって変遷していく<俗語の生命力>の一例ともいえるわけだが、もはや歴史的に、全世界的に疑う余地のない言葉の意味・意図を捻じ曲げてまで八つ当たりする連中というのは何なんだろう。
キミたちがどう思うか、どう感じるか、<暴力装置>という客観的な言葉とは関係ない。
知らなかった言葉をひとつ知り、社会や歴史を俯瞰的に見られるきっかけになれば、それはそれで素晴らしいことじゃないか。知らない、わからないということ――それは全然恥かしいことじゃない。
橋本治の『「わからない」という方法』 (集英社新書)でも読んでみましょう。

ということで<暴力装置>という言葉に、感情的に反発している人たちというのは、どう考えても、実は売り言葉に買い言葉と同じような勢いで拳を振り上げてしまった手前、後に引けないだけなんじゃないか。
それはあまりにも見苦しいし、みっともない…。
そして本当は意味をしっかり理解しているくせに、場当たり的に謝っちゃう人もどうかと思う(←こっちの方は確信犯)。

<暴力を統制するためにはより強力な暴力、すなわち組織化された暴力(Organized violence)が社会の中で準備されなければならない。軍隊、警察がこれにあたり、社会学者のマックス・ウェーバーはこれらを権力の根本にある暴力装置と位置づけた。>(はてなキーワード>暴力装置

闘争心/天皇杯四回戦 マリノス戦

2010-11-19 03:04:27 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス06~10


もう次のゲームは明日(土曜)になるわけだが、水曜はニッパツ三ツ沢球技場で天皇杯四回戦、横浜マリノス戦。
小雨が降り注ぎ、寒風が吹くという、スタンドに立っているだけでもかなり辛い環境。結果的にはギリギリ、ポンチョを被るほどではなかったのだけれども、オレにしては驚異のロングスリーブ3枚重ねという厚着でも結構な寒さでありました。
それでもエスパサポは熱かったスよ。何か、もはや、ゴール裏には(も)ほとんどストレスがない。

風下に立った前半(の特に序盤)はセカンドボールを拾われ続け、パスを2本以上つなぐこともままならずマリノスの時間帯が続いた。このゲームで本当にヤバかったのはこの時間帯。前半30分過ぎからは後半勝負の気配が濃厚になってきた。「エスパルスは後半落ちてくる」とコメントしていたマリノスのプレーヤーがいたのだが、一体何を見ていたのだろう。
今シーズン前半戦の調子の良かった頃のエスパルスというのは、後半に「変わってくるチーム」だった。
そういう意味では日曜日の湘南戦と同じような展開ではあるのだけれども、あのゴール破壊事件のブレイクタイムでチームは良かった頃の感触を思い出したんじゃないか…というような邪推をしたくなるように、後半に入るとチームは「落ちる」どころかスピードを上げてきた。
前半はかなり危なっかしかった辻尾もスペースへ勝負を仕掛けてきたし、何よりも全体としてサイドチェンジ、パススピード、縦への意識が強まった。キックオフ早々に先制点をゲットできたのが大きかったとはいえ、後半はかなり安心して観られた。俊輔のフリーキックは西部が必ず止めると思ってましたがね(でも、やっぱりスーパーセーブ!)。

どのクラブもハードな日程をベスメン規定を有名無実化するほどやりくりをしながらこなしているわけだが、この日のエスパルスはほとんどメンバーを落とすことなくゲームに臨んだ。これが今後の中2日、中3日で3ゲームをこなすという、シーズンの最終盤にちょっとどうかと思うようなハード(アホ)な日程に影響しないわけがない。でもシーズン終盤は結局はどのクラブも最後の総力戦なわけで、大事なのはアグレッシヴさなんだと思うね。



何でオレたちはアグレッシヴでいられるのか。

健太「今季でチームを辞めていく選手もスタッフも多い。気持ちの切り替えがしにくくて重苦しい時期もあったのだが、湘南戦の前に、いい形で終わろう、お互いにゲームに対して闘争心を出していかないとサポーターに失礼だと、選手たちと確認し合った。(中略)今は吹っ切れて、練習でも試合前のロッカールームでも明るい雰囲気でできている。私をというより、伊東や市川などに少しでも長くこのチームでサッカーをやらせてあげようという思いがチームにあるような気がする」(J'sGOAL 11月17日付

終了後は地元の酒場で祝杯(亀戸てのは横浜までのアクセスは物凄く、意外なほどラクチンなのだ)。完勝があまりにも嬉し過ぎて閉店まで呑んだ。ハイペースで呑み過ぎた。

このチームで観られるゲームは、あと数えるほどしかない。
東北地方、関西地方のエスパルスサポの皆さん、仙台戦や神戸戦は是非スタンドで彼らの姿を目に焼き付け、コールしましょう。
オレも仙台行きたいし、神戸にも行きたい…が…どうするかは今日一日考えよっと。

20世紀の結婚の困難について/「春宵 小論集」

2010-11-19 02:41:41 | Osamu Hashimoto
<結婚は、一人の男と一人の女という個人同士の関係を作るもんだけれども、これは多く、「家同士の関係」を作るためのものだった。「政略結婚」というのが特別なものではなくて、「結婚とはすなわち、家同士の関係を作る政略結婚が本道で、家同士のかかわりを持たない結婚のほうが例外的だった」ということは、知っておくべきだ。家同士のかかわりと無縁の結婚は、「誇るべき家格を持たない貧乏人同士の同棲」に近いものだったんだから。
 なぜ結婚が「家」なのかというと、それは、「家」というものが、長い間、労働の場である「会社」の役割を果たしてきたから。(中略)妻というのは、単なる「家事」の担当者じゃなくて、「農家の嫁」という言葉に代表されるような、「さまざまな労働の担い手」だった。「夫と妻と子供のそれぞれが一人ずつ」というような、現代ではよくあるような家庭は、過去の人間の歴史から見れば、例外的で異常なものだと思った方がいい。家には「使用人」というものがいて、この複数の「他人」が、家というものには欠かせない要素だった。(中略)
 中産階級が一般化して、それが今の我々の知る「20世紀の結婚」という一般的スタイルを作ったんだ。夫は会社に行き、妻は家で待機して、よき母になることに専念するという、そういう家庭像を作るのが、「20世紀の結婚」という幻想。
 そういうものを、あまりにも当たり前に想定して、神聖化しすぎて、「そういう結婚」をすることが「一人前の証拠」だと思ったり、あるいはそれを「無意味」と言って否定したり、逆にファッションにしたりということは、もはやあんまり意味がないと思った方がいい。重要なのは、人間はなんらかの形で他人との関係を持つ――そのかかわりによって「自分の生活」なるものが生まれて来るのだということ、それを知ること。
「結婚に関する前例はあっても、自分達の結婚に関する前例はない」――こう思うしかないところが、現在の結婚の困難なんです。>
(橋本治「20世紀の結婚の困難について」月刊PLAYBOY1993年6月号/「春宵 小論集」中央公論社 所収)


春宵―小論集
<春の宵には、恋が聞きたい。「ムーン・リヴァー」「二人でお茶を」「嘘は罪」など、甘く小粋なメロディーにのせて、世の様々な出来事を詩情あふれるタッチで語る珠玉のエッセイ集。>

登録情報
単行本:314ページ
出版社:中央公論社 (1995/01)
ISBN-10:4120023982
ISBN-13:978-4120023989
発売日:1995/01
商品の寸法:20x12.8x2.6cm