徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

手の中のもの/マイケル・S・リーフ他「最終弁論 歴史的裁判の勝訴を決めた説得術」

2011-09-25 23:41:42 | Books
<陪審の皆さん、私にはまだ半時間残されていますが、それを使わないことにいたします。私の主張をただ今もって終えます。最後に短い話、賢い老人と、彼をばかにしてお利口ぶりたい少年の話を聞いてください。少年の計画はこうでした。【ぼくは森で小鳥を捕まえる。それを手の中に入れて老人のところに行き、言ってみるんだ。「賢いおじいさん、ぼくが手に何を持っているか当ててみて」。「あー、キミは手に小鳥を持っているね、坊や」と老人は答えるだろう。そうしたらぼくは訊くんだ。「賢いおじいさん、鳥は生きているか、それとも死んでいるか?」老人が「死んでいる」と答えたらぼくは手を開くんだ。そして鳥が飛び去るのを見せてやろう。老人が「生きている」と答えたらぼくは手の中の鳥をじわじわ握り殺すことにしよう、そして手を開いて「ほら、死んでる」と言うんだ】そこで少年は賢い老人のところへ行き、訊きました。「賢いおじいさん、ぼくが手に何を持っているか当ててみて」。「えーと鳥だろう、坊や」と老人。少年は訊きました。「賢いおじいさん、鳥は生きているか、それとも死んでいるか?」老人は答えました。「鳥はきみの手の中にある、きみ次第さ、坊や」
 どうもありがとうございました。皆さんと人生の一部を共にしたことは私の喜び、神がくださった喜びでした。本当です。
 ありがとうございました、裁判長。>
マイケル・S・リーフ、H・ミッチェル・コールドウェル、ベン・バイセル/藤沢邦子・訳『最終弁論 歴史的裁判の勝訴を決めた説得術』朝日新聞社刊「プルトニウムの死」より)

本気の声/TwitNoNukes#5(9.24)

2011-09-25 01:34:51 | News

昼からtwitnonukesデモ5回目。集合時間を10分ほど過ぎたあたりで宮下公園に到着するとすでに前回の3、4割増しぐらいの参加者が集まっていた。当然、ステッカーはゲットできず。
最終的に発表された参加者は1600人で順調に数は伸びている。もともと「ハードルの低さ」では定評のあるツイデモだが、twitnonukesが毎月同じ場所での行動をコンスタントに続けてきたこと、フライヤーの配布など有志の地道な告知が効いていることに加えて、やはり19日の明治公園6万人デモのインパクトがまたハードルを下げたような気がする。

とにかく一段とハードルは下がり、一段と人は増えた。あまりにもスタート時の参加者が増えたために、いつも見かけていた元気に声を出す兄ちゃんの姿ももはや発見できなかった(別に彼と話したこともないが)。
しかし、ちょっと驚くぐらい、みんなが声を出す。
もう一度書く。コールリーダーがいらないぐらい、多くの人が本気で声を出す、のだ(もちろん「リーダー」は必要だが)。
あまりにもリズムそっちのけであちこちで声が出ているので、第一集団の前方はちょっとしたカオス状態で、さすがにトラメガさんに「リードしてくれ」とも思ったんだが、渋谷駅の交差点に差し掛かるあたりからは逆にそれが何とも言えないうねりになってきた。(オレも含め)トラメガを持たずにフリーで声をあげる人たちのコール(言葉)はシンプルにしかならないからレスポンスはしやすい。参加者に声を出させる「声」というのはコーラーの個性などではなく、結局はそういうものだろう。そんな状況が同時多発的にあちこちで起こっている。勿論いずれにせよ「声」に力を持たせるには、その声をひとつにまとめる必要はあるんだけれども(こういう状況になるともはやスピーカーの出力と位置の問題)、これは、ちょっと凄い事になってきたと思う。

公園通りを通っていつもより長めのコースを取ったのも良かったと思う。4キロ2時間コースというのは体力や集中力を考えればこれが限界に近い感じもするし、「そこ」に目撃する歩行者やドライバーがいなければ意味がないけれども、途中参加を歓迎しているデモなのだから(歓迎しないデモなどないだろうが)路上の滞在時間は長ければ長いほどいい。勿論それを可能にするのが渋谷という街なんだろう。
バスの乗客のおばさんや青山で野菜市をしていたおじさん(深谷だったかな)は笑顔で手を振ってくれた。109の前ではガキんちょがコドモオーケストラのリズムに合わせて狂ったように踊っていた。以前に比べれば物珍しげにケータイカメラで撮る人たちも少なくなったような気がする。公園通りでは中指を立ててオレたちを挑発したオヤジもいたけれども(あまりにもしつこいんで「こっち来い」とデモに誘ってあげたんですがね)、東京はデモの街になってきたのかもしれない。
これからもキープオンですね。

そして帰り道に見つけた今日の標語。


今の日本は赤信号だぜ。

私は日本人ではないので

2011-09-25 00:03:53 | Sports/Football
アフシン「ただ、川崎が1点負けている時に尊敬できるのは、そこで情熱をもって献身的に追いつこうとしているところです。私にとって興味深いのは、私は日本人ではないのでそう思ったことがあるんですが、1点をリードしている時と1点を負けている時で完全に違ったサッカーをやるということです」(J'sGOAL 9月24日付

<1点をリードしている時と1点を負けている時で完全に違ったサッカーをやる>というのは、リアクションの差はあるにしても日本人に限ったことではないとも思える…が、まあアフシンにしてみれば「できるなら最初からやれ」ってことだろう。そして、これはサッカーに限ったことではないけれども、日本人はケツに火が点かないとなかなか<全力>のエンジンがかからない。全力を<真剣>、もしくは<本気>と言い換えてもいいけれども。

そもそも日本は個人スポーツの国である。
日本は柔の国だから…つまり「勝つと思うな思えば負けよ」。
しかし道教にも似た個人の勝負観や自己達成ならともかく、それはチームスポーツに相応しい価値観なのか。
オレたちは勝つために走っているんだろうか。
それとも負けないために走っているんだろうか。
それってマネジメント的にどうなん?

これ、以前にも書いたけれども、「試し合いとゲーム」の問題にも通じるものがあるんじゃないか。日本人は、何が何でも勝つという執念を持ち得るのか? 日本人にとってチームスポーツとは? 日本人にとって「チーム」とは? 社会的弱者に対して同胞の日本人が時折見せるチーム(コミュニティ)や仲間(国民)への冷淡を考えるとなかなか深いテーマではある。

ちなみに「柔」の歌詞である<勝つと思うな思えば負けよ>は「徒然草」の<勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり>が原典とか。この勝負観、もう深く深く日本人の血肉となっているのかもなァ…。

双六の上手といひし人に、その手立てを問ひ侍りしかば、
「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。
いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして
人目なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかりなり。
(徒然草)

観戦記は改めて。