過日、般若心経、心の「大そうじ」という本の(名取芳彦さん著)の最初に出てくる般若心経を掲載したことがありました。
般若心経といえば、若かりしころ、職場の友が般若心経に関する本を買っているのを見て、「俺も読んでみたい!」と思ったことがあります。その友にしばらく会っていませんが、元気で働いていると思います。
この年齢になりますと、時間がドンドン過ぎて一日が「あっ」というまに終わってしまうと感じがします。
年齢とは関係ない?そうかもしれませんが、今日も、午前中はなんだか体がだるくてベッドに横になっていました。そして、午後から、かみさんの用事で銀行にいき、そこから、食料と胃腸薬の買い物と畑のきゅうりやナスのなどの収穫作業して家に帰ったのですが、すべてが終わったのが16時くらいになっていました。
しかも、畑に行ったときは小ぶりだった雨が「ザーザー」と音をたてて降ってきました。
どうも「何もしないで過ぎ行く日々」を恥じながら生きていると、気持ちが後ろ向きになっていけない!と思うのですが、そんな時に心が明るくなるものがないかな?と思い出したのがこの本でした。
そこで、早速、その第1章「もっと陽気に生きよう!」(心の荷物の正体を明かす)を読んでみたのです。
文章の前に「芳彦」さんが描いた一休さんのような石仏と言葉が書いてあります。
「こころ やわらかですか どしっり していますか」
いつも心をやわらかに、そして何事に動じないで「どっしり」としたいものですが、政治や社会の出来事に憤慨したりしていて、まだまだ小生も人間ができていないですね。
話を本の方に戻していただいて
この章では「般若心経」の主人公、観自在菩薩について書いています。
その中で、観自在菩薩、つまり観音様は、その名が示すとおり、物事を自由自在に、何の偏見もこだわりもなく、ありのままに観じることができる菩薩だそうです。
そして、「般若心経」はこの観自在菩薩が「空」という大原則を体得するための智慧について書かれたお経なんだそうです。
観自在などというと、分かったようなようで分からない言葉ですが、文字通りだとすれば、「観じることが自在ということ」になるのでしょう。
そこで、そうではない人、つまり、頭が固い人間は、ものの見方がひとつしかできないということになるようです。
頭が固いとどうなるかですが、柔軟な見方ができないので、将来の人生が心配だということになるのでしょうか?
私達は、観音様ではないからそれもやむをえない?
そうかもしれませんが、頭を柔らかくしないと観音様が会得したという「この世の中には何一つとして、永久不滅で、変わらないものはない」という教えが理解できないのかもしれませんね。
この教えも「頭を柔らかくして物事を見なさい」という「心の大そうじ」に通じているのかもしれません。
きょうも、よくわからないレポートになってしまいました。
巻頭の写真は、ボスニアヘルツェゴビナの世界遺産モスタルの石橋です。