ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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『戦争と平和』

2022-07-14 21:58:33 | 映画


映画『戦争と平和』を観ました。

今日7月14日はフランス革命勃発の日……ということでフランス革命に関連する映画でも観てみようかと。
まあ、よくよく考えてみれば、ナポレオンが侵攻してくるのをロシア側から見た話なので、フランス革命自体はあまり関係ないんですが……

 

公開は1956年。
オードリー・ヘプバーンも出ています。

原作は、いうまでもなくロシア文学の巨星トルストイ……なんですが、恥ずかしながら原作を私は読んだことがありません。
トルストイの大作ということでいうと、『アンナ・カレーニナ』を読んだことがありますが、あれでもうおなか一杯になって、さらに長大な『戦争と平和』には手が出せずにいたというところです。

映画を観てみると、人間ドラマとしては『アンナ・カレーニナ』の主題と重なるところも多々あるように思われますが……ただここでは、そこに戦争というものがからんできます。

戦争が遠くのできごとだったときのモスクワの生活……そこでは、戦争は楽しいこととさえとらえられていました。しかし終盤では、モスクワにまでフランス軍が侵攻し、平和な生活を送っていた人々も否応なしに戦争に巻き込まれていくのです。

きらびやかだった街や邸宅が廃墟と化していくさまは、いまのウクライナ戦争を重ね合わせずにはいられません。
もっともウクライナにおいては、ロシアが攻めていく側。
この映画に登場するナポレオンは――少なくとも、この映画のストーリーに関する限りは――プーチンの役回りということになります。
ナポレオンのような男は自らの野心で自滅するまで止められない」と、ロシア側の総司令官クトゥーゾフ将軍はいいます。
モスクワ遠征の失敗がその自滅ということになるわけですが、さてプーチンさんはどうなるでしょうか。


ナポレオンといえば、ドストエフスキーの『罪と罰』について書いたときにもその名が出てきましたが……やはり侵略され撃退した側のロシアからすると、傑物というような評価にはあまりならないのかもしれません。
戦争を回避すべく親書を送ったロシア皇帝に対し、「陰謀を企てている」として侵攻に踏み切るナポレオン……その戦争が、生活を破壊していくのです。

  戦争をゲームと考えているお偉方にはわからないだろうが、戦争は人生でもっともおそろしいものだ

とロシア軍のアンドレイ大佐はいいます。
一般論ではありますが、ナポレオンに投げかられた言葉のようであり、またプーチンさんにとっても耳が痛い言葉なのではないでしょうか。

最後に、映画のラストシーンで引用される原作の一文を紹介しましょう。

 命はすべてであり、命は神である。そして、命を愛するということは神を愛するということなのだ。

いかにもトルストイらしい説教臭い言葉ですが、はたしてプーチン大統領やロシア正教の司祭たちは、祖国の偉大な文豪の言葉をどう受けとめているのでしょうか……




『鉄腕アトム 青騎士の巻』

2022-07-01 23:31:52 | 映画


『鉄腕アトム 青騎士の巻』を観ました。

先月手塚治虫記念館の記事で、アトムが悪役となるエピソードについて書きましたが、その出発点ともいえるのが、この「青騎士」。
アマプラを見ていたら、そのアニメ版があったので、見てみました。

 

一応劇場版ということで映画記事として書いているんですが……イベントで二本立てで上映された作品の一本ということらしく、わずか10分ぐらいの短い作品となっています。


原作は結構長い話であり、旧アニメシリーズでも前後編にわけて二週にわたって放送されたエピソードです。

原作および旧アニメ版では、アトムが人間と戦う側につきます。
先日書いたように、テコ入れのためにアトムを悪役にするという趣向でそういうストーリーになったのでした。
ただし、このエピソードでは、まだアトムは完全に悪役になってるわけではありません。
人間に反逆する可能性があるロボットを強制的に収容して分解するという魔女狩りのようなことが行なわれ、それに対してアトムは葛藤し、その葛藤の末に、人間と戦うことを決意するのです。

青騎士は、X-MENでいうマグニートーのような存在であり、ロボットに対する非道な扱いに抗し、ロボットの権利を守るために戦っています。人間側がロボットに対して魔女狩りのようなことをやったがために、アトムは青騎士に協力することになるわけです。

この世界史的な視点にたった重厚なストーリーが、まさに手塚漫画の真骨頂でしょう。

この構図は、たとえば、21世紀のいわゆる「対テロ戦争」に重ね合わせることもできます。
魔女狩りのようなことをやったがゆえに、むしろ憎悪をあおり結果としてより激しく敵対するようになるという……

物語の結末がどうなるかということに関しては、漫画原作と旧アニメ版、そして99年版でそれぞれ違っています。

重いテーマをどう扱うかということで三者三様なわけですが……今回視聴した99年版は、もっともやさしい結末とも感じられます。
あるいはそれは、1999年においてはちょっと時代遅れと映るレベルだったかもしれません。そういう意味では、20世紀の終わりにこの物語が作られたのは象徴的なのではないか――そんなことも思いました。



『シン・ウルトラマン』

2022-06-03 21:36:47 | 映画



『シン・ウルトラマン』、観てきました。

注目の映画があっても行こう行こうと思いながら結局行けずじまいになるパターンが結構多い私ですが……今回はうまくタイミングがあって、観に行くことができました。

※以下、『シン・ウルトラマン』の内容に言及しています。
極力ネタバレは避けるつもりですが、ご注意を。

ネタバレに関していうと、この現代社会、公開から三週間ほども経過すれば完全に回避するのも難しく……私自身いくつかのネタバレにさらされてしまっていました。致命的でないものがほとんどでしたが、最後にアレが出てくるということは知らずに観たかったというのが正直なところです。

まあやはり、アレの登場はウルトラマンの物語を描くとなれば必然的に行きつくところでしょう。
その最終決戦のくだりは、初代ウルトラマンのみならず、ウルトラマンシリーズの背後に流れ続けてきたテーマ――“人間の物語”としてのウルトラマンがもつテーマが、しっかりと描き出されていたと思います。正直、観る前にはちょっと警戒していた部分もあるんですが……いい意味で予想を裏切られる作品でした。

ちなみに、警戒していた部分というのは、庵野さんの“カラー”を過度に出してこないかというところ。
おそらくそれで身構えている特撮ファンは結構多いと思われ、また作品の評価が割れるのもそこからくる部分が大きいでしょう。
『シン・ゴジラ』の場合、私のなかでそれがちょっとした違和感になっていたことは否めません。挑戦的ともいえる大胆な設定が、ゴジラという作品の根底にあるテーマを浸蝕してしまっているようにも感じられ……
しかし今回の『シン・ウルトラマン』の場合は、そういう違和感はほとんどありませんでした。それもやはり、ウルトラマンのテーマを踏襲しているがゆえなのでしょう。『シン・ウルトラマン』は、先述した“人間の物語”という部分だけでなく、特撮ヒーロードラマとしてのウルトラマンのコンセプトにより忠実なのだと思われます。
庵野カラーをもっとも感じたのは、やはりクライマックスでのアレの演出でしょうか。
ちょっとエヴァっぽいというのもありますが……私は『トップをねらえ』なんかを思い出しもしました。そう思ってみれば、せりふが共通しているといえなくもない。ただそこも、『トップをねらえ』のあのエンディングで描かれたテーマが、“人間の物語”としてのウルトラマンのテーマと一体化しているように感じられるのです。やはり、かねてからウルトラマンをやりたかったという庵野さんのウルトラマン愛があふれているということなのでしょう。


ちなみに、本作に登場する長澤まさみさんは本日が誕生日なんだそうです。
長澤さんといえば、東宝特撮ではかつて『ゴジラ FINAL WARS』に出ておられました。そこでは小美人役でしたが、今回は対照的にフジ隊員的役回り(こういえば、わかる人にはわかるでしょう)……もし続編ということがあれば、当然出演されるでしょう。そちらにも期待です。


最後に、劇場でこんなものが売られていたので買ってみました。



ドリンクホルダー。
購入すれば、持ち帰って私用にできます。ただ、これに入れて使える容器はそうなさそうですが……






『さよなら銀河鉄道999 ―アンドロメダ終着駅―』

2022-05-15 20:11:24 | 映画


今回は、映画記事です。

今月GWで小倉に行ってきたという記事をアップしましたが、そこでも書いたように、かの地で銀河鉄道999の劇場版2作を観てきました。そのなかから、劇場版第二作にあたる『さよなら銀河鉄道999 ―アンドロメダ終着駅―』について書こうと思います。



この作品は、999シリーズの総決算にあたる完結編です。
上の画像は映画のパンフレット(を復刻したもの)ですが、このパンフに寄せた文章で松本零士先生はこう語っています。

 今回の「999」は、少年の自立編ともいうべき形で進行し、今までナゾになっていたすべての部分を明らかにします。/メインテーマとしては、「999」の物語全体を貫いている「限りある命の讃歌」です。

その言葉のとおり、まさに完結編にふさわしい壮大な物語となっています。


物語は、機械化人の侵攻を受ける地球からはじまります。

街は壊滅し、生き残ったわずかな人類が抵抗を続けている地球……鉄郎は、そこから999に乗って新たな旅に出るのです。

目的地は、不明。

途中ヘビーメルダーの衛星ラーメタルでメーテルと合流しますが、そのメーテルも当初は何を考えているのかよくわからない状態です。
そして、旅の途上では幽霊列車や黒騎士ファウストといった謎めいたキャラクターが登場し、謎が深まっていきます。
最終的にアンドロメダにいたってそれらの謎が解き明かされていくわけですが、前半に張り巡らされた伏線を回収しつつ物語を大団円に導いていく手つきはなかなか見事です。

ここで明かされる真相に深いテーマが込められています。「少年の自立編」としての、そして「限りある命の讃歌」としてのテーマが……
しかし、残念ながらネタバレを避けるためにその詳細は伏せなければなりません。999には、ネタバレを避けるべき展開が用意されているのです。

なにげに重要なのが、黒騎士。
トップ画に掲げたポスターの左端にいる人物です。
声を担当するのは江守徹。江守徹にとって、これがアニメ声優初挑戦ということです。
原作にもそういう名で呼ばれる人物は登場しますが……この映画ではまったく違うキャラクターに。機械化帝国の女帝プロメシュームに仕える重臣ですが、作品のテーマ全体にかかわる重要な役割を担っています。

前作に比して、バトルシーンも多く、そこではキャプテン・ハーロックとクイーン・エメラルダスも登場。
999には基本的に戦闘能力がないので戦いということになったら彼らの力を借りるしかないわけですが……ハーロックは、単に戦闘要員という以上に重要な役割を果たしもします。

ちなみに、本作に登場するアルカディア号は、3番艦。
漫画原作ともTVアニメ版とも違うデザインです。
北九州漫画ミュージアムにあるその壁画を再掲しておきましょう。



乗員は、台羽以外はちゃんと主要メンバーがそろっていて、有紀螢もいます。
ついでなので、有紀螢フィギュアの画像も再掲。



ただし、アルカディア号の乗員たちは999の世界においてはあくまで陪臣的存在であり、この映画で有紀螢のせりふはたった一回しかありません。が、その一回のためにTVアニメ版の声優(川島千代子)をキャスティングしているのがうれしいところ。


ところで、最近、銀河鉄道999とコラボしたビールとハイボールというのが出てるんですが……





999といっておきながら、缶にデザインされているのは、本来ゲスト出演であるハーロックとその友トチロー。いかにハーロックの存在感が大きいかということなのです。

この映画でもう一つ特筆すべきは、椋尾篁美術監督。
昭和の日本アニメを支えた背景画家の一人で、ハーロックのTVアニメ版にも関わっていました。
りん・たろう監督も光の表現には定評があるようですが、椋尾篁ひきいるムクオスタジオの美術もまた、その光の表現を助けているでしょう。冒頭の荒廃した地球や、エンディングでの駅の風景などは、圧巻です。


かように、『さよなら銀河鉄道999』は、日本アニメ史上に残る傑作なのです。
こうして2020年代になってリマスター版が作られているというのは、その証左でしょう。
松本零士作品は海外での人気も高く、かのダフトパンクが松本先生にアルバムジャケットを依頼したというのもその一つの表れです。
こうした名作群がリマスターされて日本アニメを海外にアピールしていこうという考えがあり、今回の『999』はその試金石というような話も仄聞しました。
これは、実に頼もしい話です。
ただ、そうして“過去の名作”をアピールするということは、いまの日本アニメ界はかつてのエネルギーを失ってしまっているのかというふうにも感じられる部分はあるんですが……



『ゴジラ VS デストロイア』

2022-01-30 18:43:22 | 映画


今回は、映画記事です。

ずいぶん長いこと中断していましたが、このブログの映画カテゴリでは、ゴジラシリーズ作品についての記事を書いておりました。
その一つとして、今回とりあげるのは『ゴジラVSデストロイア』です。

「ゴジラ VS デストロイア」 | 予告編 | ゴジラシリーズ 第22作目

シリーズ第22作にして、第二シリーズ最終作。

この作品は、ゴジラシリーズ全作品のなかでも、かなり特殊な位置づけにあるといえるでしょう。
それは、ゴジラの死を描いたということがあるからです。
ゴジラシリーズ全作品の中で、はっきりとゴジラの死が描かれるのは、二作だけ。その一作が、『ゴジラVSデストロイア』なのです。
ではもう一作はというと……ゴジラファンならすぐにわかるとおり、第一作『ゴジラ』。ここがまさに、『ゴジラVSデストロイア』の特殊な位置づけということです。

東宝の関係者が語るところでは、ゴジラ第一作は伝説の作品であり、ゆえにある種の禁忌でもあったといいます。
そのメッセージ性を捨象して怪獣バトルのエンタメという方向に進んでいったことからくるある種のうしろめたさもあったと思われ……直接の続編である『ゴジラの逆襲』を別とすれば、第一作とのつながりにはあまり触れないのが暗黙のルールとなっていたそうです。
そのタブーをあえて侵し、明確に第一作『ゴジラ』の続編というかたちでつくられたという点で、『ゴジラVSデストロイア』は特別なのです。


第一作とつながる要素はいくつかあります。

たとえば、物語の軸となる山根姉弟は、ゴジラの第一作、第二作に登場した山根博士の孫です。
父親は、第一作に登場した新吉少年。特に主要人物というわけではないのですが、まあ平成ゴジラの制作陣がそこをうまく利用しているわけです。

大戸島で家族を失った新吉は東京で山根博士の養子となり、その子であるゆかりと健吉の姉弟がこの作品の主要人物となっています。

……ということは、彼らの(義理の)叔母にあたるのが、第一作にヒロインとして登場した山根恵美子。
この人も、『ゴジラVSデストロイア』に出てきます。
しかも、演じるのは第一作と同じ河内桃子さん。40年を経て同一シリーズ作品に同じ役柄で登場するというのはなかなかないことでしょうが、ゴジラシリーズではそういうことが起こりうるのです。

第一作に出てくる恵美子は、芹沢博士のフィアンセでありながら尾形(宝田明)に惹かれているという役柄でした。
その後彼女が尾形と結婚したかどうかははっきりしません。
そのあたりは、意図的にぼかしてあります。ここが第一作の禁忌感で、そういう形で後の人間が第一作ゴジラに後付けの解釈を加えるのはよくないという抑制が働いたらしいです。それだけ、第一作ゴジラに触れるのは慎重を要することなのです。(ただし、作品の中では“山根恵美子”という人物名になっている。ここから、未婚のままという推測も出てくる……)

しかしながら、その禁忌に果敢に挑んだ作品ということで……第一作から直接につながる要素がこの作品には他にもたくさん出てきます。

その筆頭が、タイトルにも出てくる敵怪獣デストロイア。
これは、芹沢博士が発明したオキシジェンデストロイヤーがもとになって生まれた怪獣なのです。

そのフィギュアを手に入れたので、画像を載せておきましょう。
ブログが少しは映えるかとおもって買ってみたんですが、思った以上にきっちり作りこまれていて驚きました。より映えさせようということで、画像加工してあります。



かつてのヘドラのように成長していく怪獣で、幼体はこんな感じ。これはまた、別のフィギュアです。




第一作では芹沢博士みずからオキシジェンデストロイヤーでゴジラを葬ったわけですが、その地層に閉じ込められていた先カンブリア紀の嫌気性微生物がオキシジェンデストロイヤーに反応して復活。そこに海底トンネルが掘られたことで、この怪物が地上に姿を現します。

この設定、見ようによっては第一作に喧嘩を売っているようでもありますが……これは、ゴジラの重要なテーマであり、平成ゴジラの主題でもある“文明への懐疑”を表現したものといえるでしょう。
科学とは何か。科学の発達は本当に人間を幸福にするのか。そういう問いです。
『ゴジラVSデストロイア』においては、伊集院博士がその葛藤を体現しています。
彼は酸素を研究しているのですが、それはオゾン層再生のため。オゾン層の再生につながり、また、生物の成長を促進して食糧の増産にもつながりうるミクロオキシゲンの研究は、同時に禁断の兵器につながるかもしれない。科学という夢やロマンと背中合わせにある危険――それはまさに、第一作ゴジラが描いたテーマの一つです。
このテーマが第一作ゴジラと直に接続してることを示すのは、次のせりふ。

「命の保証はできませんから、通すことはできません」

このいささか不自然にも聞こえるせりふは、第一作『ゴジラ』からの引用です。
第一作では、一回目のゴジラ東京上陸時にそこに駆けつけようとする山根博士を制止して警官がいうせりふ。
『ゴジラVSデストロイア』では、デストロイア幼体が登場した時そこに駆けつけた伊集院博士にむかって警官がまったく同じせりふを口にします。

ここには、単に第一作目へのオマージュという以上の意味が込められているように思えます。

そして、このテーマに関するかぎり、『ゴジラVSデストロイア』は第一作に対して挑戦的な態度をとっているようにも思われます。

先述したように、オキシジェン・デストロイヤーがデストロイアという怪獣の誕生に一役買っているということがあるわけですが、このあたりには脚本を書いた大森一樹さんの考えが反映されているのかもしれません。
大森さんは、この作品に関するインタビューで次のように語っています。

  要するに科学者の向上心は、誰にもとめられないと思うんだ。どんどん次のもの次のものと発明していくという。それをとめちゃったら人類の意味がなくなると思うんですね。だけどその果てに核であるとかオキシジェンデストロイヤーみたいなとんでもないものができてしまった時、作らないほうがよかったということじゃなくて、しょうがない、じゃあどうするんだというのが、これまでずっとあった反核の思想とは異なる、核と共存の思想というか、つくりあげてしまったとんでもないものを、どういうふうに使っていくかということで試されるのが人類の英知だと思うんですね。今度のなんかは、わりとテーマとしてはっきりしてきたんですけど。だからそういう健吉君みたいな人物を出てこさせるんですね。

――ということで、健吉という人物の立ち位置がわかります。

健吉少年は、科学に対する楽観を代表する人物といえるでしょう。
そしてそうなると、姉のゆかりは、その対極です。

ジャーナリストであるゆかりは、伊集院博士の研究するミクロオキシゲンに対して危険はないのかという懸念を示します。
科学がもつ負の側面に対して危機感をもち、警鐘を鳴らす……ゆかりは、そういう立ち位置になっています。

科学に対する楽観と懐疑――その葛藤がこの映画の一つの主題をなしているのであり、それはまた、映画製作の過程で設定をどうするか筋立てをどうするかというスタッフ間のせめぎあいを反映してもいるようです。

たとえば、先述したオゾン層云々という設定は作中では語られません。また、構想段階では、ゴジラジュニアに核兵器で放射能を浴びせて“ゴジラ化”させるというアイディアもあったそうですが、これは没になりました。おそらくこういった変更は、作品のテーマに関するせめぎあいから生じたものでしょう。

そして、オキシジェンデストロイヤーですが……結論から言えば、この映画で人類側がオキシジェンデストロイヤーを使用することはありません。
というか、そもそも作ることができないという話になっています。
この点に関しては、大森さんと大河原孝夫監督との間でいろいろ議論があったようです。大河原監督のほうは、科学への懐疑という視点のほうに立っている部分が強かったようで……この方はオキシジェンデストロイヤーを「パンドラの箱」と表現していて、作中では「オキシジェンデストロイヤー」という言葉を使うことさえはばかられるというふうになっているのも、監督の意向といいます。
そこで、せめぎあいということになるわけですが、最終的にオキシジェンデストロイヤーを使わないということになるのは、単にこの二人の間だけの問題ではないでしょう。
ゴジラシリーズのそれまでの積み重ねからして、やはりそれはNGだったのです。
核にせよ、オキシジェンデストロイヤーにせよ、科学技術によって解決するというストーリーにはできなかったということです。

このせめぎあいは、バトルのクライマックスにも表れています。

タイトルどおり最終的にはゴジラとデストロイアの戦いになるわけですが、その決着のつき方がいまひとつ見ていてはっきりしない。
特技監督をつとめた川北紘一さんは「自分が自爆するだけじゃなくて、デストロイアもまき込んで、そういうものを地球から抹殺する、その手を貸すのがゴジラだというふうに理解しないと難しいんだ」と語っています。しかし、できあがった映像は必ずしもそうなっていないということを認めてもいて……難しいのです。
これは結局、ゴジラとデストロイアという両怪獣の持つ意味合いをテーマとして消化していく難しさが、作品の結末にまで及んでいるのだと私には思われます。それはすなわち、ゴジラを終わらせることの難しさにほかなりません。
難しい課題に果敢に挑んだのが『ゴジラVSデストロイア』だったわけですが、私の思うところでは、この作品は最終的な解を示せてはいない。「せめぎあい」ということをいってきましたが、そのせめぎあいのすえの着地点を、この作品はまだ見出せていない――と。
したがって、第二シリーズはここで終わりますが、「ゴジラをどう終わらせるか」という問いはこれ以降のゴジラ作品でも難しいテーマとして受け継がれていくことになるのです。



ここで、キャストやスタッフにも触れておきましょう。

キャストは、なにしろ第二シリーズの最終作ということで、オールスターです。

Gフォースの麻生司令官、三枝未希、そして、スーパーX…本作では、スーパーXのシリーズ三機目となるスーパーX-Ⅲが登場します。そしてその搭乗員として登場するのが、高島政弘さん。役柄としては政伸さんのほうじゃないとおかしいんですが、スケジュールの問題でブッキングできずこうなったらしいです。しかし、政弘さんはまた別の役で平成ゴジラに出演しているので、そのあたりがややこしい。まあ、このあたりは致し方ないところでしょうが……
そしてもう一人、第二シリーズの主要人物としては、G対策センターの国友満長官。演じるのは篠田三郎さん。最近気づいたんですが、この方『ウルトラマンタロウ』の東光太郎なんですね。タロウでは川北紘一さんが特撮をやったりもしてましたが、ここでその組み合わせが復活しているわけです。
最後に、シリーズ常連として、もう一人はずせないのが上田耕一さん。水族館の警備員というチョイ役ですが、実はこの方ゴジラシリーズにもっとも多く出演している俳優です。この方が出ているところも、やはりオールスターということでしょう。ここまできたら、宝田明さんも出してほしかったというのはありますが……


音楽に目を向けると、伊福部昭さんの登板というところも注目されます。
前作『ゴジラVSスペースゴジラ』は、伊福部音楽ではありませんでした。これは、脚本を読んだ伊福部さんがオファーを断ったんだそうです。この作品のテイストは自分の音楽には合わないと……それはよくわかる気がします。しかし今回は、ゴジラの死を描く作品ということで、伊福部さんも承諾。そしてこれが、伊福部さんが音楽を担当した最後のゴジラ作品となるのです。

そして、制作の田中友幸さん。
第一作以来それまですべてのゴジラ作品に制作としてクレジットされてきた人ですが、『ゴジラVSデストロイア』は、その最後の作品です。この作品が公開された直後に、田中友幸はこの世を去りました。
ゴジラの死を描くこの作品は、第一作のゴジラ誕生に立ち会った田中・伊福部両氏の置き土産ともなったのです。

しかし……ゴジラはここで終わるわけではありません。

ハリウッド版GODZILLAをはさんで、この作品から4年後、第三シリーズがスタート。今後の映画記事で、それらの作品についても書いていこうと思います。