ミュシャ展にいってきましたミュシャ展にいってきました。アルフォンス・ミュシャ……いわずとしれた、アール・ヌーヴォーを代表するアーティストですね。そのアーティストが去年から今年にかけて日本ツアーをやって......
過去記事です。
だいぶ前の記事ですが、ミュシャ展について書いています。
ちょっと前に、世界の名画を集めた画像素材集みたいなものを入手したんですが……そのなかにはミュシャも含まれていました。
せっかくなので、その画像でミュシャ展を振り返ってみようと思います。
看板にも使用されている「ビスケット・ルフェーヴル・ウティール」。
これはカレンダーで、下の方に細かく書いてあるのが日付ということです。
もともとは普通の画家を目指していたミュシャですが、その方面に進むのはなかなか困難でした。能力の問題というよりも、経済的な面で……そのため、ひとまず生計を立てるために装飾画などの仕事をしていました。しかし、その世界でミュシャは才能を開花させていくのです。このお菓子会社のカレンダーもその一環ということでしょう。
出世作となったポスター「ジスモンダ」。
これは劇のポスターです。
リトグラフという技法が生まれ、ポスターが美術の新たな舞台として注目されはじめた時代……ミュシャは、その時代に適合したアーティストでした。
このポスターのモデルとなっているのは、女優サラ・ベルナール。
彼女はミュシャのポスターを非常に気に入り、舞台衣装や装飾品などのデザインも依頼するようになりました。ポスターも、数点制作しています。
下は、そのなかの一つ「サマリアの女」のポスター。
これはサラ・ベルナールではありませんが、代表作の一つ「黄道十二宮」。
ただし、ミュシャ展で展示されていたものとは別バージョンです。
もともとは印刷会社のカレンダーとして制作されたものですが、後にいろんなところに転用されていたとか。リトグラフというのは版画の一種なので、そういうことができるわけです。
ここに載せた画像は、雑誌『ラ・プリュム』のカレンダーで使用されたバージョン。
最後に、これはたしかあのときの展示にはなかったと思いますが……『スラヴ叙事詩』のなかの一作「〈ルヤナ島のスヴァントヴィト祭〉ー神々が戦う時、救いは芸術にある」です。
デザイナーとして名をなしたミュシャですが、正統派の画家として絵を描きたいという願望はずっとあったようで……晩年に帰国してから、大作『スラヴ叙事詩』に取り組みました。
その頃はまだオーストリア=ハンガリー帝国というものが存在していましたが、第一次大戦を経てこの帝国は崩壊、新たにチェコスロヴァキア共和国が建国され、ミュシャはその国章、郵便切手、紙幣などのデザインに携わったといいます。
その後チェコはナチスドイツによる支配という目に遭うわけですが……その時期ミュシャは、フリーメイソンの会員であったことからゲシュタポに逮捕されたりもしたそうです。(年譜にそんなことがさらりと書いてあって驚かされました)
これが1939年の春のことで……それから数ヵ月後の7月14日にミュシャは世を去ります。
享年79歳。
幸か不幸か、第二次世界大戦という未曽有の大戦争を目の当たりにすることはありませんでした。