先日芥川賞が発表されましたが、九段理江さんの受賞作「東京都同情塔」が、AIの生成した文章を使っているということでも話題になっています。
もっとも、作中で「AIの生成した文章」として出てくるのであって、小説としての文章自体をAIで書いたわけではないということですが……しかしやはり、小説の執筆にAIが使われ、それが芥川賞を受賞したということには、さまざまな議論が持ち上がっているようです。
この種の話は、ここ数年よく聞くようになりました。
昨年は、手塚治虫『ブラックジャック』の新作や、ビートルズの新曲がAIを援用して制作されるという話があり、このブログでも取り上げました。
実際のところ、AIはどうなのか……
最近、興味深い記事を読みました。
それは絵画に関する話なんですが、人間は、AIの描いた絵画を人間が描いたものよりも低く評価する傾向があるというのです。
AIが描いたものであるということを知らなくとも、です。
AIが描いたということを事前に知らされている場合それを見た人間がある種の忌避反応を示すことは、種々の研究ですでに知られているそうですが、この実験は、AIで描いたものと人間が描いたものを混ぜて提示し、その反応を確かめました。すると、AIが描いたものは総合的に低く評価されたというのです。つまり、AIが作ったものは、人間が作ったものに比べてどこか物足りない……のかもしれません。
しかし、昨年はそれに反するような話もありました。
写真コンテストで、AIの作成した写真が最優秀賞をとってしまったという話です。
問題の写真を出品したボリス・エルダグセンは、AI生成画像であることをあきらかにして受賞を辞退しましたが、この件はクリエイティヴ方面に大きな波紋を広げました。AI生成画像が賞をとってしまったということで、「所詮AIで作ったものには魂がこもっていない」みたいなこともいえなくなってしまったと……
しかし、これに関しても、案外ちょっと違う解釈ができるのかもしれません。
というのは、この手の賞の選考は、主観的、直観的な評価とは別に、ある種の技術論的評価が含まれているんじゃないでしょうか。〇〇の技術が使われるところが評価できる……みたいなことです。写真にかぎらず、こういったものの選考では、ある程度の客観性を担保しようということでそういう尺度がもちこまれるでしょう。で、AIが学習によって生成した画像は、そういう観点で評価されたときに点数を稼げるポイントをきっちりおさえていたんではないかと。おそらく問題のボリスさんは、「賞をとれるような写真」という指示をAIに与えて画像を作らせたのだと思われます。そうすると、AIは過去の受賞作を学習して「点数をとれるポイント」を見抜き、そういう要素をふんだんに盛り込んでくる。選考委員たちも、主観的にはそんなにいいとも思えないけれど、全体の構図に10点、露光の具合に10点……みたいな感じで採点していくとものすごい高得点になったから、最優秀ということになった、と。あるいは、そういうものをなくして、純粋に主観・直観で判断すれば、AIの作った作品は「なんか違う」と思わせるものになるのではないか……
つまり、結論としては、AIの生成するものは、点数稼ぎはできるけれど、魂はこもっていない、と。
もちろんこれは、ある種の生気論に近いものかもしれません。それに、現状そうであったとしても、将来には主観的評価でもAI生成作品が人間を凌駕するようになるのかもしれません。
しかし、やはり人間は機械にはどうやってもできないことができるんじゃないか……半ば願望交じりに、そう思います。