今日は8月15日。
終戦記念日です。
この日にあわせて、本ブログでは毎年近現代史記事を書いており、今回もそのシリーズで近現代史です。
前回の近現代史記事では、昭和11年の2.26事件を取り上げました。
今回取り上げるのは、その翌年昭和12年に起きた盧溝橋事件です。
ちょっとした軍事衝突から、日中戦争という泥沼に足を踏み入れていくきっかけとなった事件……そこから対米英戦争にまで発展していくわけで、大日本帝国崩壊の序曲といえるかもしれません。
ことの発端は、天津に駐屯していた日本軍が盧溝橋で演習を行っている際に、銃声が響いたというもの。
あわてて点呼をとると、兵士の数が足りない。これは一大事ということで、捜索がはじまります。
よく知られているように、不明とされた兵士は小用を足しにいっていただけですぐに戻ってきていたわけですが、その本人も一緒になって行方不明者を探していました。
そして、銃撃を受けたという報告を受けたのが、そこで連隊長をやっていた牟田口廉也大佐。後に「史上最悪の作戦」として悪名を馳せることになるインパール作戦を指揮したことで知られるあの牟田口廉也です。彼が「断固戦闘を開始して可なり」としたことで、戦闘がはじまります。
衝突開始から二日後の7月9日にいったんは停戦協定が結ばれますが、あいにく当時の日本軍ではこれで話が終わってくれません。
戦闘は、すぐにまた始まってしまうのです。
9日の停戦協定でいったん戦闘がおさまった直後に、「中国側が停戦協定を守るはずがない」といって牟田口廉也は独断で兵を動かします。中国軍の主力がいるとみられる宛平県城にむかって進軍していくと、それを発見した中国側が銃撃してくる。これを受けて牟田口は、やっぱり中国側は攻撃をしかけてきたといって本格的な戦闘を開始するのです。いや、そりゃあんたが軍隊を引き連れて近づいていったからでしょうと思うところですが……まあ、戦争なんてのはこうやって起こるものでしょう。結果、ここから日本は泥沼の日中戦争に突き進んでいくことになりました。
牟田口廉也は皇道派と見られていた人物で、軍内部における派閥抗争で統制派が実権を握ったことにより、天津くんだりに左遷されたというような意識があったといいます。その鬱憤が無謀な行動につながったという見方もあるようです。私としては、こういう後先もなにも考えずにとにかく戦闘に突き進んでいくのがいかにも皇道派気質というふうに感じられますが……
しかしながら、ここでの問題は単に牟田口廉也という人に帰せられるものでもありません。
もっと上にいる人間がそれを止めなかったというところにも、大きな問題があると思えます。
盧溝橋事件から日中戦争という流れの場合、河邊正三という人がいます。この人は、天津駐屯軍で旅団長という立場でした。
7月7日に最初の衝突が起きたときには視察でよそにいっていて、8日に戻ってきたところで、牟田口から報告を受けましたが、そこでは特段軍事行動を咎めはしなかったといいます。しかし、その二日後に牟田口が戦闘を再開した際には、さすがにそれはまずいということで、牟田口のもとに血相を変えてやってきます。しかし、そこで上官としてただちに勝手な軍事行動をやめさせたかというと、そうはなりませんでした。牟田口を鋭い形相でにらみつけただけで、そのまま何も言わずに立ち去ってしまったというのです。
不可解な態度ですが、これはまさに、それまでの十数年にわたって青年将校らの暴走を容認、黙認、追認してきた軍上層部の態度を象徴しているのではないでしょうか。
困ったことをしてくれたとは思っている。だけど、それは咎めたり止めたりはしない、という……
その背景には、いろんな理由があるでしょう。自分自身も一定の理解はしているとか、へたに咎めだてすれば自分の立場が危うい、下手をすれば命の危険すらあるとか、いま止めたところで結局そのうち同じことが起きるだろうから意味がないとか……そういったことがないまぜになって、結局は暴走を止めない、止められない。結果、戦闘はいたずらに拡大して収拾がつかなくなっていきます。
それが、数年後のインパール作戦にまで至ります。
牟田口は牟田口なりに、自分のせいで大変なことになってしまったという意識はあったようで……その状況を打開して罪滅ぼしをするというような考えが、インパール作戦につながりました。
しかしながら、そのインパール作戦は大失敗に終わります。
そしてこのときも、牟田口の上には河邊正三がいました。牟田口は第15軍司令官、河邊はビルマ方面軍司令官という立場で、ここでまた一緒になったのです。同じ二人のあいだで、同じ過ちが繰り返されます。作戦実行前はともかく、実際にやってみて作戦の失敗があきらかになっても、河邊はそれを止めようとしませんでした。
視察に訪れた秦参謀次長が「インパール作戦は失敗だから中止したらどうか」といったところ、河邊は失敗を認めつつも、はっきり中止したいとはいいません。そして、秦が帰国してインパール作戦は失敗だということを遠回しに報告すると、参謀総長を兼ねていた東條英機首相は、「戦さは最後までやってみなければ判らぬ。そんな気の弱いことでどうするか」と一喝したとか……こうなるとまさに、「腰まで泥まみれ」の世界です。
インパール作戦の失敗自体には、戦争初期の勝利からくる慢心とか、敵戦力の過小評価とか、物資の欠乏とかいろいろ理由があるでしょうが……やはりそれとは別に「止めなかった」ということが大きな問題ではないでしょうか。
そしてそれは、盧溝橋事件から日中戦争に雪崩れ込んでいく一連の流れでも同じだったと思われるのです。
……というところで、盧溝橋事件の話に戻りましょう。
武力衝突が拡大しつつあった八月ごろ、その当時の首相だった近衛文麿が南京を訪れて蒋介石と直接会談し和平協定を結ぶ案があったといいます。
衝突再開後に再び結ばれた停戦合意を派兵決定で台無しにしたり、後には蒋介石を「対手とせず」として和平の道を閉ざすなど事変対応にはいろいろと不手際を指摘される第一次近衛内閣ではありますが……決して対中戦争一辺倒ではなかったのです。
しかし、このトップ会談の話は、結局立ち消えとなりました。
当時内閣書記官をつとめていた風見章によれば、立ち消えとなった原因は陸軍の統制力に対する疑念でした。
すなわち、仮にトップ会談によって和平が成立したとしても現地軍がそれを遵守する保証がない、という問題です。
現実問題として、先述したように衝突発生直後に一度は現地で停戦協定が結ばれているにもかかわらず、それがすぐに破られているわけであり……この懸念は決して捨て置けるものではありません。というよりも、政治家同士のトップ会談で和平が結ばれたとしても、現地軍がそれを無視するであろうことは――驚くべきことに――当時の中国大陸ではほぼ確実とさえいえたでしょう。近衛政権で外相をつとめていた広田弘毅を派遣するという話もあったようですが、打診を受けた広田も、やはり難色を示します。広田はその前に総理大臣をやっていて、軍の横暴をいやというほど味わっていたために、よりいっそう懸念は強かったでしょう。
こうして、軍の上層部も政治家も軍の暴走を止めることができず、日本は中国大陸で戦争の泥沼に沈み込んでいきます。腰まで、首まで泥まみれとなっても、愚か者は「進め」と叫ぶ……まさに「腰まで泥まみれ」を地で行く話です。その先に破滅的な事態が待っているのは、ある意味当然ともいえるでしょう。