先日、司馬遼太郎は今年生誕100年だという話をしました。
当該記事では書き忘れてましたが、8月3日がちょうど司馬遼太郎の誕生日ということで、生誕100周年ということだったのです。
それはともかく、せっかくの100周年ということなので、司馬遼太郎原作の映画でも……ということで、映画『燃えよ剣』をアマプラで視聴してみました。
過去に映画やテレビドラマで何度か実写化されているようですが、今回観たのは一昨年公開された最新版です。
その予告動画を載せておきましょう。
映画『燃えよ剣』新予告映像(90秒)10月15日(金)公開!
原作は、私が最初に読んだ司馬作品でした。
もう二十年以上も前の話……なつかしいかぎりです。
内容は、新撰組を描く物語。
副長の土方歳三を中心にして、武州多摩の“バラガキ”たちが新選組を結成し、幕末の動乱に散っていく……尺の関係上だいぶいろいろ端折ってはありますが、新撰組最後の戦いとなる箱館戦争までを扱っています。
『城塞』がそうであったように、これもまたやはり“敗北の美学”でしょう。
しかし、やはりここには見るものを強く惹きつける何かがあります。
時流におもねることなく、筋を通す美学ということでしょう。
理屈からいえば、ばかげたことをしているわけです。
『城塞』の記事でもちょっと言及しましたが、戦闘を放棄するという徳川慶喜の方針には、慶喜なりの理があります。徹底抗戦で本格的な内戦状態に陥れば、日本は列強の植民地になってしまうおそれもあった。そういう意味では、戦おうと思えば相当程度戦える力があったにもかかわらず、あえてそれを投げ出したのは、慶喜の英断だったと私は思ってます。
しかしそれは、あくまで、政治のレベルでの理。
一介の剣士である土方に、そんな理はありません。
土方としては、ただ、動乱の世にあっても筋を通す。滅びゆく道だとしても、己の信じるもののためにのみ戦う――そう、これはまさに、キャプテン・ハーロックの美学ではないでしょうか。この美学が、やはり私のようなものを惹きつけてやまないのです。ゆえに、あれこれ司馬作品を読んだ後でも『燃えよ剣』は私のなかでベストの一作であり続け、今回映画を観ていても、やはりこの剣の世界にはたまらなく引き込まれました。
見え透いた嘘や責任逃れが横行する世間……人の生き様はこうありたいものです。