ロック探偵のMY GENERATION

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イーグルス「呪われた夜」(Eagles,"One of These Nights")

2017-09-21 16:50:08 | 音楽批評
 

昨日は身辺雑記のようなことを書きましたが、今日は、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』に登場する曲を紹介するシリーズを書いていきます。

今回は、順番通りに、第三章の章題となっている「呪われた夜」です。

この曲もまた、アルバムのタイトルチューンですね。
「呪われた夜」というのはかなり大胆な邦題で、原題は One of These Nights 。直訳すると、「これらの夜の一つ」という意味になります。
ただ、曲中には devil とか demon といった単語が出てきたりして、その曲調なんかから考えても「呪われた夜」という邦題はあながち的を外したものでもなさそうです。
むしろ、古き良き「名邦題」といえるかもしれません。


発表は、1975年。

この頃のイーグルスは、質的に変化を遂げようとしていました。

よく知られているように、イーグルスはもともとリンダ・ロンシュタットのバックバンドとして出発しており、当初はウェストコーストらしさを前面に出したサウンドでした。

しかし、時代の変化、ロックの変化というものが彼らにも影響を及ぼします。

以前書いたように、70年代初頭、ロックの世界は大きく変化しつつありました。

それまでは、細かい違いはあっても「ロックンロール」と一くくりにされていたものが、細分化し、多様化していったのです。

また、60年代のラブ&ピース的な価値観は急速に訴求力を失い、多くのアーティストがその状況への対応を迫られていました。

そういう時代に世に出たため、イーグルスも自分たちの目指す方向性をあれこれと模索していた様子がうかがえます。それが、『呪われた夜』というアルバムにも表れているわけです。

タイトルチューンである「呪われた夜」は、それまでのイーグルスにはなかったようなサウンドになっています。

タム系のドラムを使った重めのイントロ。
ところどころファンクっぽいギター。
ハードロックっぽいギター高音域の単音弾き……


個々の要素を取り上げれば、それまでにも決してなかったわけではありません。全体的な曲調としては、「魔女のささやき」と似ていなくもありません。
しかし、やはり、それまでとはかなり違ったイメージがあります。
ギターの音色がハードロックよりになっていることが大きいと思いますが、そこに、あの無気味なアルバムジャケットや不穏な歌詞もあいまって、まったく異質な世界に足を踏み入れたような感じになっているのです。

結果として、これが受けました。
アルバム『呪われた夜』は、イーグルスにとって初の全米No.1ヒットとなったのです。

このあたり、日本の例でいえば、フォークグループだったRCサクセションがハードロックバンドに生まれ変わって大成功したというのと通ずるところがあるかもしれません。
やっぱり、実力のあるアーティストは、時代の変化にもきちんとアジャストするということなんでしょう。イーグルスは、見事に時代の変化に対応したのです。

しかしそれは、手放しで成功と呼べるものでもありませんでした。

「時代の変化に対応した」といえば聞こえはいいですが、意地の悪い見方をすれば、「日和った」「売れるために自分のポリシーを捨てた」というふうにけなすこともできるわけです。
実際のところ、こうした音楽性の変化をめぐってメンバー間で確執が生じ、そのことがバーニー・レドンの脱退につながったともいわれています。
また、「時代の変化に対応した」ことは、「計算高い」とか「商業主義に染まっている」といったネガティブなイメージがイーグルスについてまわる一因にもなっているかもしれません。


このあたりは、難しい問題です。

ほかの多くのアーティストも、音楽性を変えることで時代に適応しました。
なかには、ジェファソン・エアプレインのように、名前まで変えてまったく別物になったバンドもあります。一方で、“適応”を拒んで、低迷、あるいは表舞台から姿を消してしまったアーティストもいます。

では、イーグルスはどうなのか。

彼らは日和ったのか。

私は、そうは思いません。
これはなにも、自分の本の題材にしたということからのひいき目でいっているわけではありません。

彼らは、音楽的なスタイルを変更しながらも、その基本にあるアティチュードは保ち続けていたと思うのです。

この「呪われた夜」にしても、そうです。

ここで歌われているのは、都会の退廃です。
切り口は変わっていますが、やはりこれまでこのブログで書いてきた物質文明批判というスタンスは、消えてはいません。
このアルバムには「いつわりの瞳」(Lyin' Eyes)という曲が収録されていますが、この曲もまさにそうです。
つまり、彼らはその根底にあるスピリッツは変えていない。そしてそれが、翌年の『ホテル・カリフォルニア』に結実し、さらに30年以上後の作品である『エデンからの道、遥か』にいたるまで底流に流れ続けています。
『エデンからの道、遥か』の段階では、音楽的なスタイルにおいても、もとの形に回帰しているように聞こえますが、これもそのゆえでしょう。
通底するものがあったがために、時代がさらに流れていったときにそれが再び表面に出てきたのです。
その点については、またいずれ、別の機会に書きたいと思いますが……重要なのは、なにしろイーグルスがレジェンド的存在であり続けているということです。

単に時代に適応して音楽性を変えていくだけだったら、レジェンドとみなされるような存在にはなれないでしょう。
それでは、一度は時代の変化に合わせられても、またどんどん時代が変わっていくうちに、埋没していってしまいます。

実例を挙げるのはなんですが、先に名前の出てきたジェファソン・エアプレインが、そういう意味でレジェンドになり損ねたグループだと思います。

ジェファソンの場合も、やはり70年代初頭に、これからの方向性をどうするかということが問題になり、メンバー間で確執が生じ、激しいメンバーチェンジ、名前の変更を経て、スターシップというまったく別のバンドになりました。

スターシップは、当時の流行だった路線に完全に乗って、成功しました。
しかし、そういう時代の流行もやがて廃れていきます。結果として、スターシップはもう次の時代の波に乗ることはできませんでした。

これは、時代の変化に適応した悪い例だと思えます。

スターシップだって今でも有名なグループではありますが、それは「青春時代の懐かしのメロディ」的な意味であって、レジェンドたりえてはいないと思うのです。

この“悪い例”と対照してみると、イーグルスがレジェンド的な存在であるのは、やはり、根幹のところを変えなかったからではないかと思えます。
スタイルを変えるところはあっても、芯の部分にあるアティチュードは変えない。
そうだからこそ、イーグルスはレジェンドなのではないでしょうか。


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