ひさびさの、近現代史記事です。
このブログではときどき近現代史に関する記事を書いており、前回は、若槻内閣の崩壊と犬養内閣の誕生について書きました。
これが、昭和6年暮れの話。
その続きとして、今回は昭和7年の“血盟団事件”について書こうと思います。
これは一応、前回と同様、日付に対応してのことです。3月5日は、事件の一環である団琢磨銃撃が起きた日なのです。
血盟団事件は、昭和七年初頭に起きた一連の事件の総称。
「血盟団」とは、その首謀者たちの通称。自分たちでそう名乗っていたわけではないようですが、捜査機関やメディアはそう呼んでいました。その関係者は、前年に起きた三月事件や十月事件と、深くつながっています。このテロ組織が、“国家改造”を目的として、“一人一殺”をかかげて暗殺事件を起こしました。
まず2月9日、民政党の井上準之助が暗殺されます。
そして、3月5日、三井合名理事長の団琢磨が銃撃を受けるのです。
団は、翌日死亡しました。
実行されたのはこの二件ですが、ほかにも、若槻前首相や、元老・西園寺公望なども暗殺のターゲットに挙げられていました。
これら一連の事件で中心になるのは、井上日召という僧侶です。
「日」の字がついていて、日蓮宗の僧侶と一般にいわれますが……実際には公式に日蓮宗から認められた僧ではありません。独自の新興宗教団体のようなものを作っていて、「日召」という名も、あるとき修行をしていたら天から声がして日召と名乗るようにいわれたとして勝手に名乗っているだけです。
そのエピソードからもわかるとおり、国家改造主義者たちにはカルト宗教的なところがたぶんにあります。
いうなれば、オウム真理教がサリン事件を起こすという、そういうレベルの話なのです。
おそろしいのは、そのカルト宗教的メンタリティの持ち主たちが実際に国家を動かしてしまったということです。麻原彰晃が総理大臣になって国家を運営したら崩壊まっしぐらになるのはあきらかでしょう。戦前の日本に起きたのは、そういうことなんです。
そして、もっと問題なのは、このメンタリティが、敗戦によっても完全に途絶えることなく、戦後日本に相当程度受け継がれているということなのです。
たとえば、血盟団事件に民間右翼として参加していた四元義隆という人がいます。
この人は、血盟団事件においては、連絡役をつとめ、また牧野伸顕(大久保利通の孫。後の5.15事件でも暗殺対象になっていた)暗殺担当にもなっていました。それは失敗するわけですが……しかしこの人は、戦後も右翼の大物として活動を続けていました。“歴代総理のご意見番”などと呼ばれ、政財界に強い影響力を持っていたといいます。
考えてみれば、これはおそろしいことじゃないでしょうか。カルト宗教に所属して未遂とはいえテロ事件に関与した人物が、政財界に強い影響力を持っているというのは……
しかし、程度の差はあれ、こういうことは日本政治史に結構よくあることなのです。
戦後、冷戦構造のなかで日本が西側陣営に組み込まれていく過程において、いわゆる“逆コース”で戦前レジームとの決別が不徹底に終わってしまった……ということだと思われます。
おそらくは、普通に想像されるよりも、日本という国は戦前と戦後の間にそれほど断絶がないのです。
戦後、民主化や価値観の転換といったことで、危ういところでバランスが保たれていたと思うんですが、近年そのバランスも崩れてきているようで……このへんで、健全なバランスを取り戻しておく必要があるんじゃないでしょうか。
日召はたしか昭が本名で「昭」の字を天啓で「日召」にわけたんですよね。
奇しくも日蓮宗の僧侶風の名前に見えますね。
そういうことみたいですね。まあ実際はそんな程度の話なのを、天から声がして……みたいに脚色するのが、いかにもカルト宗教という感じです。まじめな若者がそういうところにはまってしまうというのは、オウムと同じで昔も今も変わらないということなんでしょう。