今回は、歴史記事です。
このブログでは、時折日本の近現代史について書いています。
以前三月事件について書きましたが……その続きということで、三月事件から満州事変にいたる半年ほどのことについて書きたいと思います。
張作霖爆殺事件以降、張作霖の息子である張学良と関東軍の間では緊張が高まっていました。
7月に、万宝山事件という事件が起こります。
日韓併合に反発した朝鮮の人たちが、中国側に逃れ、かの地で中国官憲と衝突。その衝突に日本が介入し、武力衝突に発展したという事件です。
ほぼ同時に、中村大尉事件というのもあり、張学良側との対立は深刻化していきました。
これらの行動が、昭和天皇の懸念を引き起こします。
三月事件以降、軍部の“下克上”が目に余るようになってきた。この連中は、何をしでかすかわからない。そこで、手紙を書き、関東軍に人を派遣して諫めようというわけです。
その意を受けた南次郎陸相が使者として白羽の矢を立てたのは、参謀本部第一部長の建川美次でした。
しかし、この建川美次という人は、小磯国昭や鈴木貞一らとともに、“国家改造”に前向きなグループに属する人でした。三月事件にも関与していて、つまりは関東軍にいる人たちと基本的に同類であり、人選が根本的におかしいわけなんです。
一説には、これで満州での行動を中止させられることをおそれた小磯国昭(当時は軍務局長)が、「建川でなければおさまらない」と主張して陸相にこの人選を提示したともいいます。
そして……結果として、これは最悪の結果を招くことになりました。
天皇の諌言を伝える使者として建川が派遣されてくるということは、事前に関東軍首脳部の知るところとなります。
そこで彼らはどうしたか。
普通なら、これはやばいからやめとこうとなるところでしょう。ところが、驚くべきことに――行動を思いとどまるどころか、「建川が来る前にやってしまえ」と、それをきっかけとして行動に移りました。天皇の書簡を見た後で行動を起こせば、天皇の意に逆らったことになってしまう。だから、手紙を見る前にやろうというわけです。こうして、満州事変が勃発しました。
昭和天皇が陸軍大臣南次郎に注意を与えたのが、昭和六年の9月11日。そして、満州事変が起きたのは、9月18日……
ある意味では、昭和天皇が関東軍をけん制しようとしてとった行動が、満州事変の引き金になったともいえます。
まあたぶん、建川が派遣されていなければ、それはそれで結局いつか同じことをしていたんでしょう。
ある関係者の証言によれば、鉄道爆破は9月28日に予定されていたといい、それがちょっと早まっただけのことなのかもしれません。
それにしても、“国家改造”などといっている人たちの思考回路は、根本的なところで配線が狂っているとしか思えません。
願望と妄想と現実との区別がつかず、自分の起こす行動がどういう結果を招くかを冷静客観的に考えることができず、しかも責任をとろうとしない。いや、責任をとる気がないからそういうことができるんでしょうが……ともかくも、組織を動かすような立場に絶対おいてはいけない人たちなんです。
ところが、昭和6年以降ぐらいから、そうした人たちが国家を動かすようになっていきます。
その決定的なステップとなったのが満州事変であることは、議論をまたないでしょう。というわけで、またいずれ折を見て、満州事変について書こうと思います。