ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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Chuck Berry, Roll Over Beethoven

2020-05-12 21:02:13 | 音楽批評


先日、リトル・リチャードの訃報についての記事を書きました。

そのなかで、リトル・リチャードと同世代のアーティストとして、チャック・ベリーの名が出てきました。
ということで、今回はこのレジェンドについて書こうと思います。

チャック・ベリーといえば、誰しも名前を聞いたことがあるであろうロックジャイアントの一人。ロックンロール創始者の一人とも目される伝説のミュージシャンです。
この世代の人には長生きが多いと前回書きましたが、チャック・ベリーも、死去したのは2017年と、世代を考えればかなり最近です。享年90歳ということで、じゅうぶん長生きしたといえるでしょう。
そのキャリアのなかで、彼はいくつもの名曲を生み出してきました。
なんといっても有名なのはJohnny B Goodeでしょうが、ほかにもロックの名曲を数多く残していて、多くのアーティストにカバーされています。
たとえば、Rock and Roll Musicというそのものズバリなタイトルの曲がありますが、これはビーチボーイズやビートルズによってカバーされています。
ビートルズのバージョンは、日本ではシングルでも発売されていたようです。日本では、ビートルズのアルバムから独自にシングルカットした日本盤のみのシングルがたくさんあったみたいですが、そのなかで売り上げトップだったのがこのRock and Roll Musicだったといいます。
そして、ビートルズとの関係では、ちょっとした因縁も。
ビートルズにCome Togetherという曲がありますが、これはチャック・ベリーのYou Can't Catch Meのパクリといわれています。そのパクリを指摘されたジョン・レノンが和解の条件として同曲をカバーし、それが、ロックスタンダードをカバーしたソロアルバム『ロックンロール』につながっているのです。

そしてもう一つ、パクリではなくれっきとしたカバー曲として、Roll Over Beethovenがあります。
ビートルズバージョンにつけられた邦題は、「ベートーヴェンをぶっ飛ばせ」。
1956年発表のこの曲は、チャック・ベリーのキャリアにおけるごく初期のヒット作です。その挑戦的なタイトルは、ロックという音楽が、高級で高尚な音楽に対するアンチテーゼであったことを思いださせます。

歌詞の一部を抜粋すると、こんな感じです。

  熱はどんどんあがっていって
  ジュークボックスのヒューズも吹っ飛ぶ
  俺のハートはリズムを刻み
  俺のソウルはブルースを歌い続ける
  ベートーヴェンをぶっ飛ばせ
  そしてチャイコフスキーに教えてやれよ

チャック・ベリーといえばギターの名手として知られていますが、作詞家としても一流でした。それがよく発揮された軽快な歌詞といえるでしょう。日本語訳では表せませんが、偶数行末では韻を踏んだりもしていて、なかなか芸が細かいです。対句や押韻といった伝統的な修辞を使いつつ、しっかりロックしています。
あの、音楽室の壁にかかってふんぞり返ってる高尚な連中に教えてやれよ、これからは俺たちの時代だってな――これこそ、まさにロックでしょう。

  ロッキン肺炎にかかって
  リズム&ブルースが一発必要なんだ

なんていう歌詞もあって、タイムリーでもあります。
一応解説をくわえておくと、ここでいう「リズム&ブルース」とは、いまR&Bと呼ばれているジャンルのことではなく、その当時ロックンロールを指して使われていた言葉。つまり、肺炎にかかったから、一発ロックでぶっ飛ばしてくれといっているわけです。
巷に新型肺炎が流行するいま、この精神でいたいものです。





リトル・リチャード「のっぽのサリー」(Little Richard, Long Tall Sally )

2020-05-10 19:18:24 | 音楽批評
 
リトル・リチャードがこの世を去りました。

チャック・ベリーなどと同世代の、ロックンロール・レジェンドの一人。
なぜだかこれらの人たちは長生きする傾向があるように思えますが、リトル・リチャードもその例にもれません。87歳だったということです。

また、彼はゲイであり、それを公表していたという点でも注目に値するミュージシャンでした。
代表曲のタイトル「トゥッティ・フルッティ」という言葉は、表面的にはフルーツの入った氷菓子のことですが、“おかま”を意味する隠語でもあるのです。クイーンやエルトン・ジョンがこの曲をカバーしているというのも、そう考えるとうなずけます。
今ではセクシャルマイノリティに対する差別や偏見をなくそうという動きが広がってきていますが、1950年代ぐらいにゲイであることを公表するのは、かなり勇気のいることだったでしょう。これが、ロックというものが持つある種の中性性、アンチマチズモ的な部分、そして、周縁性、マイノリティ性というようなことにつながってきます。それは、私がいうロックンロール第二世代の重要な要素なのです。

そんなリトル・リチャードの有名な曲に、「のっぽのサリー」があります。
原題は、Long Tall Sally。

ロック史に残る名曲で、ビーチボーイズやビートルズなどがカバーしています。とりわけ、ビートルズのカバーバージョンは最高にぶっ飛んでます。
ほかにも、私はその音源を聴いたことがありませんが、エルヴィス・プレスリーやキンクスがカバーしているということです。この顔ぶれを見ただけでも、リトル・リチャードという人がいかにリスペクトされていたかがうかがえるでしょう。
このロックンロールレジェンドに、いまはただRIPというのみです。





『ゴジラVSキングギドラ』

2020-05-09 19:08:24 | 映画

 


 

今回は、映画記事です。

長いこと寄り道をしていましたが、ここでひさびさにゴジラシリーズに戻って、シリーズ第18作『ゴジラVSキングギドラ』について書きましょう。


 

 

公開は、1992年。

これは、東宝創立60周年記念にあたる年です。そのアニバーサリーイヤーにふさわしく、スケールの大きな作品となっています。

例によって、予告の動画を貼り付けておきましょう。

 

 
【公式】「ゴジラVSキングギドラ」予告 ゴジラがキングギドラと1対1の闘いを繰り広げる唯一の作品。ゴジラシリーズの第18作目。

福岡の人間としては、自分の行動範囲内にある風景が出てくる面白さもあります。アクロス福岡や天神愛眼ビルなど、登場する建物から、ああ、あのへんをこういう経路で移動しているんだな、ということがわかったりして楽しめます。当時完成したばかりの福博であい橋や、福岡タワーなども登場。

また、福岡以外にも、広島や札幌も出てきて、ご当地ネタが盛りだくさんです。さらに、最終決戦は新宿都庁が舞台となります。
こうして日本各地を舞台としていることについて、大森一樹監督は「営業の関係」と冗談まじりに語っていますが……実際のところはどうなんでしょうか。

ともあれ、その全国大都市めぐりのなかでも最初に出てくるのが福岡であり、福岡襲撃の部分は分量的にも多いように思えます。
ということで、この作品に登場する福岡の各地がいまどうなっているのか、見てきました。(※画像は、去年の暮れに撮影したもの)


まずは、福岡都市高速。
 

キングギドラが最初に登場するとき、この上空を飛んでいます。
 


こちらは、中洲を望む西中島橋からみた風景です。
橋の上に突き出した展望台のような場所があり、おそらく映画のシーンもそこから撮ったものと思われます。
当然ですが、その当時と今では、川沿いに並ぶ店などまったく入れ替わってしまっています。
 
そして、旧福岡県公会堂。

フレンチルネサンスの洋館として重要文化財に指定されていて、現在でも映画撮影当時のまま残っています。ただ、周辺は整備されてだいぶ様子が変わっていますが。

そして、その近くにある福博であい橋。 

映画撮影当時、できたてでした。この橋も、おそらく撮影時と変わっていません。映画では上空から見下ろしたところも映ります。
 

こんなふうにみてくると、この映画が名所紹介的な要素も色濃く持っていることがわかるでしょう。


ではここから、映画の内容に入っていきましょう。

まず、キャストについて。

主人公を演じるのは、豊原功補さんです。
この方は、前作『ゴジラVSビオランテ』にもちらっと出ていました。
主要人物の一人として登場する佐々木勝彦さんも、同様です。
ただし、豊原さんはともかく、佐々木勝彦さんはかなりわかりにくいです。私も、三回ぐらい見返して、はじめて気づきました。
もう少し補足すると、佐々木さんは、かつて『ゴジラ対メガロ』や『メカゴジラの逆襲』にも登場していました。今回は、恐竜を研究する教授の役で登場。その名前が「真崎」で、にやりとさせられます。

また、新藤会長には土屋嘉男さん。この方も、ゴジラ常連です。
土屋さんがひさびさに登場したのも、やはり東宝60周年ということがあるのかもしれません。

そんなふうに考えると、アニバーサリーを意識しているんじゃないかという趣向が他にもいくつかあります。
たとえば、冒頭のシーンに登場する深海探査艇。
ここで使われているミニチュアは、東宝特撮史に残るディザスタームービーの金字塔『日本沈没』に登場した深海調査艇「わだつみ」です。
さらに、作中に登場する潜水艦は、84年版『ゴジラ』に出てきたソ連原潜を使っています。
これらは、ただの流用ではないのかもしれません。東宝60年ということで、過去の名作に登場したメカをオールスター的な感じで出しているんじゃないか……そんなふうにも思えるのです。

アニバーサリー記念作というのは、ストーリーにもあらわれているかもしれません。

この作品ではタイムスリップが出てきますが、それによって過去から未来にいたる260年というスケールの話になっています。地理的にだけでなく、時間的にも相当な広がりがあるのです。


そのうち、“過去”の部分では、太平洋戦争が描かれます。

先述したとおり、23世紀から未来人がタイムスリップしてきますが、彼らは、ゴジラによって壊滅させられる日本の未来を語り、それを避けるためにゴジラを消滅させることを提案します。ラゴス島なる島にいる恐竜ゴジラザウルスが核実験の放射能を浴びてゴジラになるというので、そのゴジラザウルスを別の場所にワープさせるのです。

タイムマシンが出てくるということで、タイムトラベルものにありがちな矛盾点がいろいろと指摘できるわけですが……そもそも過去作との関連を考える必要があります。

第二期シリーズにおいては、第一期の『ゴジラの逆襲』~『メカゴジラの逆襲』にいたるまでの作品はなかったことになっていますが、そうであったとしても、第一作『ゴジラ』は前提となっていて、そうなると、ここで対象となっているゴジラは2匹目ということになります。
つまり、第一作の最後で語られる、「あのゴジラが最後の一匹とは思えない」というせりふどおりに二匹目がいるという話なのです。二匹目がいるのなら、三匹目、四匹目がいてもおかしくないということになるわけで……そもそも未来人の計画自体が無意味なんじゃないかという気がしてきます。

しかし、経緯がどうあれ結局ゴジラが出現してしまうというのは、核の脅威を冷めたアイロニーとして表現しているともいえるでしょう。
核というものが世界中に拡散した時代ならば、どこに恐竜をワープさせようがゴジラは出現する運命だったのです。
ここをとらえて、「愚かな時代……救いようのない原始人どもだ」と未来人ウィルソンはいいます。核というテーマをこういう切り口で描いたところは、この作品の評価ポイントでしょう。

で、話を戻して、過去へのタイムトリップですが……

その行く先は、先述したとおりラゴス島。
太平洋戦争当時日本軍が駐留していたという設定で(実際には、存在しない架空の島)、タイムスリップした先の過去世界では、米軍との激しい戦闘が起きています。ゴジラザウルスが米軍を撃退したおかげで生き延びた新藤(土屋嘉男)が、復員して、戦後日本の経済復興を支えたということになってます。

その筋立てからすると、太平洋戦争から、経済大国となった戦後の日本――その五十年の歴史を俯瞰してもいるわけです。
作中キングギドラが広島を通過する場面では原爆ドームが画面に映り込んでいますが、ここにも戦後日本を俯瞰するという企図が読み取れるように思えます。


あの戦争はなんだったのか。そして、その戦争が終わって五十年の日本の経済的繁栄はなんだったのか――東宝60年記念というところで、そういう壮大なスケールを出してるんじゃないかと思えます。

ちなみに、戦時中にタイムトリップしたところでは、「スピルバーグの父親」が出てきたりもします。
これも、SF映画というものへの愛の表現なのでしょう。それにしても、そのスピルバーグの父親役がケント・ギルバートというのがまた複雑な気持ちになってくるんですが……


さて、過去の話はこれぐらいにして……
ここで、“未来”という点に着目してみましょう。

バブル崩壊や、冷戦の終結といった、その当時の“現代”からみえていた未来は示唆的です。
バブルの余韻は、ヒロインの眉毛の太さなどにあらわれているわけですが……作中で語られる未来も、かなりバブリーです。

未来人たちが語るところによると、未来の日本は世界でも突出した経済大国となり、世界各国の土地を買収して、米中ソを超える超大国となっています。
……まあ、そういう時代だったということでしょう。バブル期の日本では、今から考えるとトンデモなことがいわれいたんです。
しかし、未来人の干渉によって、この未来も変化します。いろいろな紆余曲折を経て、結局ゴジラが出てきて日本は崩壊。時間軸が変更されたあとの23世紀の日本は、「繁栄に溺れ、怪獣に滅ぼされたとるに足らない国」と評されています。
この展開は、現実の日本を待つ未来を無気味に予言しているようにも聞こえるのです。
もう一度福岡の話に戻ると、最初にキングギドラが福岡を襲撃するシーンで、九州銀行という銀行を破壊する場面が出てきます。
福岡に行ったときに周辺を探し回ってみたんですが、この九州銀行なる銀行は、今はもう存在していませんでした。調べてみると、バブル期に作った負債がバブル崩壊後に重くのしかかり、経営再建しきれずに消滅してしまったということです。そんなところでも、この映画は予言的だといえるんじゃないでしょうか。

また、もう一つ「冷戦の終結」という時代背景も見逃せません。

本作では、敵味方が目まぐるしく変化します。
人類の脅威であったはずのゴジラが消滅し、すると今度はキングギドラが新たな脅威として登場。そこへ、あたかも人類の希望であるかのようにゴジラが登場して、そのゴジラがキングギドラを倒すと、今度はゴジラが脅威となる。そして、そのゴジラを倒すために、キングギドラをサイボーグ怪獣として復活させ……という具合です。
キングギドラが、メカに改造されてとはいえ、ゴジラから人間を守る側につくというこのコペルニクス的転回……敵・味方という構図自体が流動化していくポスト冷戦期の世界を暗示するようでもあります。
そういった点でも、『ゴジラVSキングギドラ』は時代を映し出しているのです。


ここで、キングギドラという怪獣についても書いておきましょう。

アニバーサリーということでいえば、キングギドラという怪獣も、まさにアニバーサリーにふさわしい存在です。

ゴジラシリーズに登場する怪獣たちのなかにも花形怪獣というのはいて、キングギドラはそのなかでももう鉄板なわけです。
『地球最大の決戦』で鮮烈なデビューを果たして以来、ゴジラと幾たびも死闘を繰り広げ、その見た目のインパクトも手伝って、ゴジラ最大のライバルという位置づけになりました。
キングギドラが登場した作品は、興行的に失敗することがありません。
第一期の『ゴジラ対ガイガン』や、第三期の『ゴジラ×モスラ×キングギドラ 大怪獣総攻撃』のように、浮揚効果を持っていると思われます。
(FINAL WARSに出てくるのは「カイザーギドラ」という別種なので、含まない)
それは、第二期でもそうでしょう。前作『ゴジラ対ビオランテ』はぱっとしない成績でしたが、キングギドラが登場した本作では、観客動員数が大幅に増加しました。これ以後の第二期シリーズ作品は軒並み好成績を残していますが、その足がかりは本作で作られたともいえるんじゃないでしょうか。

さらに本作では、サイボーグ化し、メカキングギドラに。



メカになったのは、キングコング、ゴジラに次いで3例目。
ここからも、キングギドラが東宝怪獣の中で別格の存在であることがうかがえます。

余談ながら、『ゴジラ対キングギドラ』撮影時のキングギドラの三本首は、左から順にイチロウ、ジロウ、サブロウという名前がつけられていたそうです。


真ん中の首はゴジラとの戦いでちぎれてしまうことから「ぶっとびジロウ」という名前も与えられていたとか。
そしてそれがメカキングギドラになると、「メカジロウ」となります。



なかなかなネーミングセンスですが、おそらくは撮影のためにそのような名前を必要としたのでしょう。キングギドラは操演が多く、特にメカキングギドラは中に人が入ることができないため、完全に外からの操作。ワイヤーを使って20人ぐらいで操作していたといい、そこに指示を出すために名前をつけたものと思われます。「お前、今日イチロー担当ね」とか、「はい、そこでサブロー左向いて!」みたいな感じでやってたんじゃないでしょうか。これはあくまでも想像ですが。
こういう飛行怪獣は今ならフルCGということになるんでしょうが、この当時のCG技術ではキングギドラを表現するのはとうてい不可能でした。それは、この作品にときどき出てくるCGをみればよくわかります。ゴジラ作品が本格的にCGを取り入れるのは、ミレニアムシリーズになってからのこと。ただ、このあたり、“昔ながらの手法”にこだわって新しい技術に乗り遅れる日本の悪弊を象徴してるようにも思えますが……

最後に、音楽にも触れておきましょう。

本作では、また伊福部昭が音楽担当に復帰します。
第一期の最終作である『メカゴジラの逆襲』以来、16年ぶりに伊福部音楽がゴジラワールドに戻ってくるのです。
時代が変り、映画音楽にもとめられることもだいぶ変わってきていたと思いますが、伊福部サウンドは健在です。

伊福部起用も、やはりアニバーサリーということがあるからだったんじゃないかと思えます。
映画音楽を手掛けること自体が13年ぶりだったそうですが、やはりそれだけ、この『ゴジラVSキングギドラ』には力が入っていたということなんでしょう。

録音では、実際に映画の画面をスクリーンに映しながら録音するというハリウッド式の手法が使われたそうです。

未来人が出てくるという話なわけですが、そのあたりの音楽では、電子楽器のようなものは使わずにビブラフォンが使われています。
宇宙人とか未来人的なものをビブラフォンで表現するとなると、そこはかとなく昭和臭が漂ってきて……ここにも、CGと同根の問題があるかもしれません。
多分に“頑固な職人気質”みたいなものがあって、CGなんかに頼らずにワイヤーで怪獣を操作する、電子楽器は使わずにビブラフォンというアナログ楽器で“未来”を表現する――ということなんでしょう。

気持ちはわかります。
私自身も、結構そういうところがあります。

しかし、先述したように、それは日本という国が世界の潮流から取り残されていく原因なんじゃないかとも最近は思ってます。
CG技術で比較すると、1997年に公開されたハリウッド版『GODZILLA』の段階で相当な差をつけられている気がします(映画の内容は別として)。
昔ながらのやり方に固執して技術革新に乗り遅れるというのは、ちょうどこの映画が公開されてから今にいたるまでの30年ぐらいの日本でずっと続いてきたことなのではないか――とすると、『ゴジラVSキングギドラ』という作品は、バブル崩壊から衰亡に転じていく時代の日本を、図らずも切り取っているといえるのかもしれません。

《追記》
アニバーサリー大作ということで、私も結構いろいろ調べたり画像を撮影したりしてこの記事を書きました。そのために、前のゴジラシリーズ記事からだいぶ時間がかかったわけですが……その数か月の間に、コロナ禍という予想もしない事態が進行していました。あらためて見返してみると、まるで去年福岡市で画像を撮影していたのが遠い過去のように思えます。
いまの視点から『ゴジラVSキングギドラ』をみると、いっそうその預言性が高まっているようでもあります。この映画においては、道を誤ってしまった日本にもう一度やり直すチャンスが与えられることになりますが……はたして現実の日本はどうでしょうか。



満州事変

2020-05-07 20:26:48 | 日記



今回は、ひさびさに近現代史ネタの記事を書こうと思います。

このカテゴリーとしては、前に満州事変前夜というべき動きについて書いてきましたが、ここでいよいよ満州事変です。

今月の憲法記念日の記事で、戦前の日本の暴走について書きましたが、その暴走の最たるものが、満州事変でしょう。それ以前から“下克上”の動きはあったわけですが、それはいうなれば助走でしかありませんでした。その助走を止めなかったために、いよいよ軍や民間右翼の活動家たちは埒を破って本格的に暴走し始めます。満州事変は、その踏切ラインのようなものといえるでしょう。


満州事変は、1931年9月18日、柳条湖における満鉄の線路爆破によってはじまります。

よく知られているように、これを中国側から攻撃されたと言い張って、関東軍は軍事行動を開始。
そこから、満州国建国へとむかっていくわけです。

発端となった鉄道爆破は、「爆破」といっても、ほとんど被害のないものでした。
実際、爆破の後にその地点を何事もなく列車が通過しているといいます。意外なことに、レールの一部が欠損していても、直線部分を高速走行している場合であれば勢いで通過できるんだそうで……実行者たちもそれを知っており、列車に被害が出ないよう計算して爆破したのだとか。

なんだその微妙な気遣いは……という話です。

意識をむけるところが根本的にずれてるわけです。
そんな計算をするぐらいなら、自分たちの行動がどういう結果を引き起こすかをきっちり計算しておくべきだったでしょう。

彼らの常軌を逸したところは、随所に見出すことができます。

前に書いた決行前倒しの件もそうですが、ほかにもたとえば、決行するかどうかをじゃんけんできめたなんて話もあります。
もっとも、この点に関しては、割り箸を倒して占いをやったという話も。
いわゆる“国家改造主義者”たちの証言は、他の資料と食い違いがあったりしてそのまま真に受けていいのかわからない部分が多々ありますが……いずれにせよ無茶苦茶であることに変わりはないでしょう。

出発点がそんな感じなので、その後の経緯もひたすら滅茶苦茶です。

たとえば、錦州爆撃。
張学良の拠点を爆撃したもので、これがさらに日本の立場を悪化させることになるわけですが……これに関しても「事態を悪化させてしまった」のではなく、はじめから「悪化させる」つもりでやったのだという証言があります。
国際連盟の枠組みのなかに日本政府はあくまでもとどまろうとしていましたが、そんな政府の「弱腰を粉砕するために」、わざと連盟を挑発するような行動をとったというのです。
実際、彼らの目論見はあたり、国際連盟は日本に対する態度を硬化させ、これが国際連盟脱退につなっていきます。

きわめつけは、朝鮮軍の行動です。

朝鮮軍――といっても、その当時日本に植民地だった朝鮮半島に駐留していた日本軍という意味ですが――彼らも、この関東軍の暴走に呼応して動きます。

当時朝鮮軍のトップを務めていた林銑十郎は、国家改造主義者の一味でした。

そもそも、関東軍が行動を起こした背景には、この林銑十郎ならば自分たちに呼応して動いてくれるという目算があったといいます。
果たして、その期待通りに林銑十郎は行動を起こします。独断で鴨緑江をわたり、関東軍を援護するのです。中央からは明確に止められていたにもかかわらず……これはあきらかな越権行為であり、天皇の統帥権を侵犯してもいます。

ところが――当時の若槻内閣はこれらの暴走を追認してしまうのです。

「やってしまった以上、しかたがない」というのが、その言い分です。
結局のところ、関東軍と朝鮮軍の暴走は、閣議決定というかたちで事実上事後承認されてしまいます。

これがもう、滅茶苦茶でしょう。

右翼も左翼も関係ありません。純粋に、組織統治の問題として、信じがたいことです。

いっぽうで天皇主権といいながら、主権者であり軍の全権を掌握する天皇の判断もスルーして、閣議決定というかたちでそれをやってしまう……ここから、日本は壊れていくのです。
その背後には、国民の支持があったことも否定できません。
柳条湖事件後の関東軍の進撃を、国民は熱狂的に支持してしまいます。これがあったために、軍の上層部や政治家たちが関東軍の暴走を積極的に止められなくなった側面はあるでしょう。

関与した人たちは、処罰されるどころか、その後地位を高めていきます。

小磯国昭や、先述した林銑十郎などはこの後総理大臣になっているわけですが、これがもういかれているとしかいいようがありません。こんなことがまかりとおっていたら、国が破滅するのはある意味当然でしょう。

ここから得られる教訓は、無茶苦茶な行動を「もうやってしまったことだからしょうがない」で認めてはだめだということでしょう。
無茶苦茶な行動は、たとえすでにやってしまったあとであろうときちんと無効にしてしまわなければならない。そうしないと、追認がさらなる暴走を招き、制御不能な状態に陥ってしまうということです。

どうも日本では、「もうやってしまったことを咎めても仕方がない」という考え方が強くあるように思えるんですが、これが実は、日本的無責任体制を支えているものなんじゃないでしょうか。





コロナと子どもの日

2020-05-05 20:05:53 | 日記



今日は5月5日。

子どもの日です。

毎年この日の恒例で、新聞などでは少子化のことが話題になっています。子どもの数は最少を更新し続け、現在ではおよそ1500万人ほどだということです。

そして、これからの数年で、状況はさらに悪化することが見込まれます。この問題でも、コロナが深刻な影響を及ぼしてくるのです。

このコロナ禍において、出産を躊躇するという夫婦は相当数にのぼるでしょう。
そのことによる極端な出生数の減少は、今すぐではないものの、ほぼ確実に起きる問題です。それが統計上の数字として表れるのはタイミング的に来年になると思われるので、来年の出生数はすさまじいレベルで減少することが予想されます。たださえ新生児の減少は進んでいたわけですが、もう一気に50万を割るとかそういうレベルになるんじゃないかと予測されます。

それにともなって、人口減少も加速するでしょう。

人口減少もまた、かねてから問題になっていることですが、出生数の減少は当然そこにも波及してきます。
そもそも、感染症で人口が減るというのは現代の世界ではほとんど考えられないことですが、この新型コロナ禍の日本では、それがありえます。死者の増加によってではなく、出生者の減少によって。

コロナが終息するまでの一時的なこととはいえ、その“一時的”がもし数年というスパンに及んだら……それは、日本社会に致命的な後遺症を残すでしょう。
どうにか手を打っておかないと、取り返しのつかない事態を招いてしまうのではないか……そんなことを考えずにいられない子どもの日でした。