手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

バスケットボールで、こんな思い出がある

2014-01-22 20:23:37 | スポーツ
バスケットボールの競技のあることは知っていたがもちろん競技に出たこともなかった。大学を出て沼田高校に奉職してから、授業の合間で体育館の空いているときには一人でバスケットのシュートの練習をして遊んでいた。

 いつの間にかフリーシュートだと8割くらい入れることができるようになった。またランニングシュートも一人でやれば90%は入れることができた。

 そんなとき転勤で美唄東高校に転勤となった。美唄東高校の男子はバスケットが強いという話を聞いていた。転勤した一年目、バスケットの練習を見ていて、女子の力がひどく弱いのに気が付いた。それで2年目に志願して女子の顧問になった。私は競技の経験がないのだけれど、要するに点を相手より多くとれば勝てるのだから、取られない守りと確実な得点を重視する指導をしてみた。まず走ることからと、コートの使えないときは屋外での走り込みをやらせ、フリーシュートは私がやっている狙い方を教えてやらせたら、みんなどんどん上達してくれた。またランニンぐシュートは100%を要求した。そして、ミドルシュートの自分の一番やりやすいところを決めそこからのシュートの確率を上げる稽古を徹底してやらせた。速攻を基本とし、ミドルシュート自分のポジションに入れてマークが甘ければ積極的に打つ。また相手のファールを誘うカツトインプレーなどをどんどんやらせた。

 今まで高体連の地区予選で負けてばかりだったのが、翌年準優勝して全道大会出場を果たしました。次の年から3年連続地区優勝をしたのです。ここまで育てたのは間違いなく私が顧問になって、手を入れたからだと今も思っています。 しかし、体育館での練習はほかの部活動とぶつかり思うような稽古ができません、外での稽古はランニングパスくらいの稽古しかできません。そんな中、美唄中学のバスケットの顧問の先生が中学校のコートを使って指導してくれることになりました。結局、その先生がコーチとしてついてくれ、それを断ることもできず、当然のことですが私はただの顧問としてついているだけの立場になってしまい、つまらない幕切れになりました。

 今は廃校になってしまいましたが、美唄東の女子パスケットボール全盛期を作り上げるキッカケを作ったのは私でした。しかし全く評価されないまま終わりました。選手として経験を積んできていない弱さで、高度なテクニックなどの指導は全くできないのだから仕方がないのです。</Font>
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