今日は節分、明日は立春。冬至から待っていた時です。北国の春はまだまだこれから続くのですから、待っていることの意味もあまりない時でもあります。
でも、確かに大きな区切りを感ずるのです。今年もまた春を迎える。
4月には84歳になる。年相応に物忘れはひどいし、肺気腫の進行で思うように動くこともできず、また体力を維持する運動?リハビリーといった方がしいいのかもしれないがそれすらあまりやらなくなっている。
このように毎日のようにブログを書き、84年の生涯のすべてを語りつくしたかといえばまったく書いていないに等しいかもしれない。
忘れきりたいこともあるし、忘れたくないこともある。良し悪しで評価するには重すぎるものもある。
人間だれもがそうなのだろうと思う。幼い時から出会った多くの人、今は思い出す人の数も限定されてきている。今もその人の名前とか姿が懐かしく蘇る。いま会ったら見間違うだろう、でも心の中ではいつも変わらない姿だ。
口に出す意味もなく、書くにも足らないつまらないことだけれど、忘れることができす時々懐かしんでいることもある。
短い人生だったか長い人生だったのか自分で決めようもないけれど、今、新たな自分の一生の一ページとなるような劇的出来事を期待する事もできない歳になっている。回顧だけが支えのやうな人にはなりたくないのだけれど、今や回顧することさへできなくなった人が身近にもいたりする。歳に逆らうということは、難しいけれど、挑戦することはできるのだ。懐かしむのではなく、よくやったといえる人生にしたい。
でも、確かに大きな区切りを感ずるのです。今年もまた春を迎える。
4月には84歳になる。年相応に物忘れはひどいし、肺気腫の進行で思うように動くこともできず、また体力を維持する運動?リハビリーといった方がしいいのかもしれないがそれすらあまりやらなくなっている。
このように毎日のようにブログを書き、84年の生涯のすべてを語りつくしたかといえばまったく書いていないに等しいかもしれない。
忘れきりたいこともあるし、忘れたくないこともある。良し悪しで評価するには重すぎるものもある。
人間だれもがそうなのだろうと思う。幼い時から出会った多くの人、今は思い出す人の数も限定されてきている。今もその人の名前とか姿が懐かしく蘇る。いま会ったら見間違うだろう、でも心の中ではいつも変わらない姿だ。
口に出す意味もなく、書くにも足らないつまらないことだけれど、忘れることができす時々懐かしんでいることもある。
短い人生だったか長い人生だったのか自分で決めようもないけれど、今、新たな自分の一生の一ページとなるような劇的出来事を期待する事もできない歳になっている。回顧だけが支えのやうな人にはなりたくないのだけれど、今や回顧することさへできなくなった人が身近にもいたりする。歳に逆らうということは、難しいけれど、挑戦することはできるのだ。懐かしむのではなく、よくやったといえる人生にしたい。