漢詩の鑑賞と詩吟を同一している人がいる。
漢詩は文学の領域だし、詩吟は歌曲の領域になる。その区別ができていない人がいたりする。
漢詩の鑑賞は本来中国語に精通していなければ無理なのです。絶句、律詩などの区別は中国語が分からなくても判別はできる。押韻、平仄法なども一寸資料があればわかのですから。しかし、漢詩における平仄法の味わい、押韻による音律などは中国語で読んでわかることで、中国語での読み方もできない私たちには全く無理なのです。結局、訓読法に従って日本語に直して詩文を味わうことはできますが、そこでは、平仄法も押韻の効果も問題になりません。
詩吟は、漢詩の訓読文を書下したものに節調をつけた、日本独自の伝統芸能になっているのです。書下し文は漢詩を日本語に読み直したもので、訳したものではありません。ですから詩としての意味を理解することでは同じになります。また、この定型詩としての法則にのっとって漢詩を作ることは中国語がわからなくてもできます。日本人によって作られた素晴らしい漢詩もたくさんあります。しかし、我々が鑑賞できるのは。視覚的・知的な面でだけで中国語の音律による表現効果は殆どわからないのです。
漢詩と詩吟はこのように全く違う領域のものですから、漢詩の素読と詩吟の素読は全く違うものになるのです。詩吟の節調を外した読み方=素読を訓読と言う間違いがされています。詩吟で訓読しなさいということは、日本語になっている文章をもう一度日本語に直して読みなさいと言っているに等しいのです。
漢詩の素読は、訓読法に沿って意味を考えないで声を出して読むことであり。詩吟では詩文に節調をつけないで読みなさいということです。そこで要求されるのは、詩吟に近い声で、正しい日本語としてのリズムのある読み方です。
詩吟の素材はすでに訓読されているものです。訓読という意味は日本語で読むということです。訓読文を訓読せよというのは、日本語をさらに日本語にして読みなさいというに等しいのです。そんな読み方はできないですよね。
漢詩は文学の領域だし、詩吟は歌曲の領域になる。その区別ができていない人がいたりする。
漢詩の鑑賞は本来中国語に精通していなければ無理なのです。絶句、律詩などの区別は中国語が分からなくても判別はできる。押韻、平仄法なども一寸資料があればわかのですから。しかし、漢詩における平仄法の味わい、押韻による音律などは中国語で読んでわかることで、中国語での読み方もできない私たちには全く無理なのです。結局、訓読法に従って日本語に直して詩文を味わうことはできますが、そこでは、平仄法も押韻の効果も問題になりません。
詩吟は、漢詩の訓読文を書下したものに節調をつけた、日本独自の伝統芸能になっているのです。書下し文は漢詩を日本語に読み直したもので、訳したものではありません。ですから詩としての意味を理解することでは同じになります。また、この定型詩としての法則にのっとって漢詩を作ることは中国語がわからなくてもできます。日本人によって作られた素晴らしい漢詩もたくさんあります。しかし、我々が鑑賞できるのは。視覚的・知的な面でだけで中国語の音律による表現効果は殆どわからないのです。
漢詩と詩吟はこのように全く違う領域のものですから、漢詩の素読と詩吟の素読は全く違うものになるのです。詩吟の節調を外した読み方=素読を訓読と言う間違いがされています。詩吟で訓読しなさいということは、日本語になっている文章をもう一度日本語に直して読みなさいと言っているに等しいのです。
漢詩の素読は、訓読法に沿って意味を考えないで声を出して読むことであり。詩吟では詩文に節調をつけないで読みなさいということです。そこで要求されるのは、詩吟に近い声で、正しい日本語としてのリズムのある読み方です。
詩吟の素材はすでに訓読されているものです。訓読という意味は日本語で読むということです。訓読文を訓読せよというのは、日本語をさらに日本語にして読みなさいというに等しいのです。そんな読み方はできないですよね。