手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

西郷南洲の構成吟のナレーションを作りながら「残響」の村橋久成を思い出して

2014-10-24 18:47:36 | 随想
  今、構成吟「西郷南洲をしのぶ」のナレーションを作っている。その中で戊辰戦争が鳥羽伏見の戦いで始まり、函館五稜郭の戦いで終わる所にきて、「残響」の村橋久也のことを思い出した。

 維新の動乱の中で、島津久光公の上洛、「生麦事件」の賠償問題などで薩英戦争が起こり、その結果、薩摩とイギリスの関係が深まり、そんな中薩摩藩は7名の青年をイギリスに留学させることになった。その中に村橋久也はいたのだ。しかし、村橋は1年で帰国し、薩摩軍に加わり、五稜郭の戦いではその講和交渉の中心として活躍したのを思い出した。また、戊辰戦争で庄内藩との講和を進めたのが黒田清隆で、黒田は西郷の命に従って、庄内藩の恭順を穏便に終わらせて大変感謝されたのだということも知った。その黒田の下で維新の北海道開拓の重要な使命をうけ、北海道開拓に多大な功績を遺したのだった。とりわけ、ビール工場立ち上げを政府が意図したとき、ビール工場は札幌にすべきと上申して現在のサッポロビール工場を設立したのだ。設立されて間もなく村橋の消息は分からなくなった。それが数年後神戸で行路病者として倒れているのを見つけられる。その時名乗ったのが村橋久也という名前で、新聞に「行路病者村橋久也」として知人に連絡する記事がで、それがきっかけで黒田清隆をはじめとするしか政府の薩摩関係の方たちにより葬儀が執り行われたのだといいます。

 サッポロビール工場史の中にも村橋久也の名前が残っていなかったといいます。それが、この「残響」で明らかとなり、今はサッポロビール向上に村橋久也記念展示がなされています。

 この「残響」を改めて評価したのが現知事の高橋さんです。知事着任の折、「残響」の村橋の意思をくみ北海道の進展に尽くすといったことがきっかけで改めて「残響」村橋の名前が表に出て、名古屋大学中村信也先生が、残響の作者田中先生と会い、村橋の話を知り、村橋の胸像を作ってお持ちになっていたのですがその胸像を北海道に移そうという期成会が立ち上げられ。数年前の9月23日、知事公館西入口から入ってすぐのところに移転され、「残響」という銘をつけて、今も厳然と立っています。

 村橋が消息を絶つにいたった理由は知る由もないけれど、ビール工場は設立間もなく、きわめて安い価格で民間に払い下げられたのです。それを知っての失踪でした。これが村橋の新政府に対するただ一つのできる抗議だったに違いありません。北海道の為、命がけで作り上げたビール工場が道民の財産として開拓時の北海道に大きな利益をもたらすものと信じていた村橋の新政府への抵抗は総てを捨てことだったのだと思う。

 ちなみに明治新政府の役員(多くは薩長)は、空いた大名藩邸を殆ど無償で手に入れていったのです。村橋はそのようなところにも手は出さなかったようです。







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