手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

こんな性格は嫌われるようだ 

2018-07-06 19:56:00 | 無題
 私は自分の所属する団体の間違いがひどく気になる。最初に詩吟で加盟した 象堂流では、教本の誤字や解釈の間違いなどがひどく気になり、自分で全部チェックしていた。そして、宗家に改めて私に教本の問題個所をチェックさせてくれないかお願いしてみたけれど、わからない理由をつけて断られた。一流派の教本は流派の顔です。間違いだらけではその流派の資質が問われることになる。傷だらけの顔をさらすことになるのです。私の 象堂流に対する思いはこのあたりから変わってしまった。そして。20年目にしてお弟子さんともども退会させてもらうこととした。

 同じようなことが、新しく所属することになった現在の流派についても不信感を持たざるを得ないことがあったりする。最初のころはアクセントの使い方が極端で、そんなな読み方は日本語でないと言い張っていた。しかし、聞き入れられなかったが、研修会で中央の吟士を招き、その吟を聞いたら私の主張は聞かれなかったけれど、その講師の吟を聞いて変わった。また、ある問題集を出していて、それを見たら間違いが随分目についた。それで何か所かについて意見をまとめて検討してくれるように頼んでみた。これは聞き入れられ私の納得できるように改められた。そのあと、私に短歌の部分について助言を頼まれることがあった。その時たまたま、教本に出てくる短歌の解釈と鑑賞の研修会の講師をすることになっていて、私の講義を聞いた後、手を入れることにしてくださいといってその場は引いた。私の講座の中から大きな問題を拾い上げ問題集の再校正をされるかなと思ったけれど、そのままになった。又別な問題でもそれは間違いですといったけれど、聞き入れてくれない方が多い。明らかな間違いなのです。それを通すことは自分の顔に泥を塗る野と同じだとおもうのです。

 判っても黙っているのが利口な生き方なのでしょう。どうも私はそれができない。間違いを指摘して得意になるつもりはない。自分の所属する会の傷は治した方がいいと思う。それだけのことなのだけれど、どうもそうは見てはくれないのが世の中なのかもしれない。詩吟について偉そうなことを言える実力も見識もあるわけでないけれど、そんな私にさえ見える傷はほんとうの傷だと思う。
コメント
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