先日詩吟の教室で、「百人一首」の読みて手となって、読んだのを覚えているかと聞いてみたら、読んだことがないし、わからないという答えだった。北海道の「下の句カルタ」誰もが経験していることとおもったりしたが後期高齢者でもやったことのない人が結構多いのに驚いた。
私は小学生のころから正月の遊びとして覚えてきた。下の句を読んで、下の句を書いた板の札を取る。それを特におかしいとも思わないでやっていた。ただ、私は読み手になることが結構好きだった。試合開始の時、一枚を空読みをして本番に入ります。その時普通は「まずは空読み一枚」といって下の句一枚を読みます、そして二枚目から本番になるのですが、私が読み手になったときは、一枚目を上の句から読んであげるようにしていました。そして、できるだけ自分で上の句も覚えようとしていました。
一度だけ、上の句から読む本来のカルタ会をした経験があります。札幌西陵高校の現役の時、学校の公開講座で私が「百人一首の解釈と鑑賞」という講座を開いた時のことです。10数名の方が受講してくださったのですが、中に本州で育って、子供のころ上の句カルタをやったことがある方がいらっしゃった。この講座の打ち上げで、食事会をすることになり、その折みんなで上の句カルタをやってみましょうということになった。やはり経験者にはかなわなかったけれど、結構楽しむことができた。
下の句カルタは北海道の風土に合っていたのかもしれない。上の句からだと和歌百句を暗記しなくてはならない。大変手間がかかる。手っ取り早くとなれば下の句カルタだ。暗記力の強さは言うまでもないけれど、感の鋭い人にかなわない。数枚になって二人が最後の勝負をするそんな時、次に読まれる札の頭の文字のアクセントが頭高型か平板型かで読み手の読みの余韻の最後が微妙に変化するその変化を感じ取って取るような凄い人がいる。そんな感覚を研ぎ澄ますために、畳をばんばんと叩いて気合を入れたりする。まるで格闘技のような感じさへ出てくる。「ひやくにんいっしゅ」が正しいけれど「ひゃくにんしゅ」で通ってきているのも北海道らしい。
私は小学生のころから正月の遊びとして覚えてきた。下の句を読んで、下の句を書いた板の札を取る。それを特におかしいとも思わないでやっていた。ただ、私は読み手になることが結構好きだった。試合開始の時、一枚を空読みをして本番に入ります。その時普通は「まずは空読み一枚」といって下の句一枚を読みます、そして二枚目から本番になるのですが、私が読み手になったときは、一枚目を上の句から読んであげるようにしていました。そして、できるだけ自分で上の句も覚えようとしていました。
一度だけ、上の句から読む本来のカルタ会をした経験があります。札幌西陵高校の現役の時、学校の公開講座で私が「百人一首の解釈と鑑賞」という講座を開いた時のことです。10数名の方が受講してくださったのですが、中に本州で育って、子供のころ上の句カルタをやったことがある方がいらっしゃった。この講座の打ち上げで、食事会をすることになり、その折みんなで上の句カルタをやってみましょうということになった。やはり経験者にはかなわなかったけれど、結構楽しむことができた。
下の句カルタは北海道の風土に合っていたのかもしれない。上の句からだと和歌百句を暗記しなくてはならない。大変手間がかかる。手っ取り早くとなれば下の句カルタだ。暗記力の強さは言うまでもないけれど、感の鋭い人にかなわない。数枚になって二人が最後の勝負をするそんな時、次に読まれる札の頭の文字のアクセントが頭高型か平板型かで読み手の読みの余韻の最後が微妙に変化するその変化を感じ取って取るような凄い人がいる。そんな感覚を研ぎ澄ますために、畳をばんばんと叩いて気合を入れたりする。まるで格闘技のような感じさへ出てくる。「ひやくにんいっしゅ」が正しいけれど「ひゃくにんしゅ」で通ってきているのも北海道らしい。