もう20年以上前だったと思う。漢詩づくりの講座などが開かれ、詩吟をやる人は漢詩を作れなくちゃ駄目だといったような勢いで皆様その講座に参加されていた。私はその流れに入らなかった。
唐詩をその作法に随って作る。定型詩の作法、特に平仄法を重視して漢詩を作る。これは漢文を白文で読める力のある方ならまだわかるけれど、短い漢詩だって中国語で読むことの出来ない人が、作るのは無理な話なのだ。折角、苦心して平仄を揃えても、中国語で読まない限り平仄からくるリズム感は味わうことができない。
詩歌には定型と自由詩がある。詩歌の歴史の中で、定型でなければ詩歌でないみたいな時代もあったが、現代では、俳句、短歌で定型を守っているところはあるけれど、散文詩は定型の時代は終わっている。俳句、短歌でも非定型で認められている。
現代は自由詩の時代なのです。漢詩から平仄を省いて、五・七を基調として押韻、音数律だけを定型にした詩を作るほうが、もっと良い詩ができると思うのだが、無理やりに平仄を合わそうとして、とてもひどい言葉使った詩を幾つも見せられて、それを違和感なしに受け入れていることにおどろいている。
唐詩をその作法に随って作る。定型詩の作法、特に平仄法を重視して漢詩を作る。これは漢文を白文で読める力のある方ならまだわかるけれど、短い漢詩だって中国語で読むことの出来ない人が、作るのは無理な話なのだ。折角、苦心して平仄を揃えても、中国語で読まない限り平仄からくるリズム感は味わうことができない。
詩歌には定型と自由詩がある。詩歌の歴史の中で、定型でなければ詩歌でないみたいな時代もあったが、現代では、俳句、短歌で定型を守っているところはあるけれど、散文詩は定型の時代は終わっている。俳句、短歌でも非定型で認められている。
現代は自由詩の時代なのです。漢詩から平仄を省いて、五・七を基調として押韻、音数律だけを定型にした詩を作るほうが、もっと良い詩ができると思うのだが、無理やりに平仄を合わそうとして、とてもひどい言葉使った詩を幾つも見せられて、それを違和感なしに受け入れていることにおどろいている。