手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

手稲は最高・・・群馬だより・・・北海道の思い出(美唄)

2023-02-14 15:45:30 | 身辺雑記

美唄(びはい)に転勤したのは昭和37年だった。

美唄は炭鉱の町として知られていました。最盛期には人口も10万人を超えていたといわれます。三井、三菱の二大炭鉱があり、三菱は山奥のほうに鉱山がありましたか゛、三井は駅の裏側のほうの山の斜面に鉱員住宅を建てていて、夜になると斜面が住宅の明かりで煌々としていました。その炭鉱が閉山の波に飲み込まれ、三井が36年に閉山していて、ついで三菱が閉山となりますがその途中に行ったのだったと思います。最初に与えられた住宅は、炭鉱住宅の払い下げのような、バラックでした。

 炭鉱住宅の空き家になったものを格安とで払い下げていて、便利な三井地区はほとんど取り壊されることなく現在も一般住宅として活用されています。

人口も急激に減少して、奉職していた美唄東高等学校も一学年10学級のマンモス高校で進学でも管内有数の成績を残していましたが、瞬く間に学級減で勢いを失っていくことになりました。

美唄の中村地区に宮沢沼という沼があるのですが。ここは渡り鳥の中継地となっていて、渡りの季節になると白鳥をはじめとして多くの鳥類が羽を休めていました。

私にとって、この美唄は単に一時期奉職したということだけでなく、退職後の生活を彩る詩吟の出発点となったのでした。この美唄で始めた詩吟、岩見沢に本部のある象堂流でした。札幌に転勤してからも継続して、退職前に詩吟の教室を立ち上げ、その関係で手稲文化協会の活動にも関わり充実した退職後の生活を楽しむことが出来ました。

 

 

 

 

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