手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

手稲第一教場 詩吟 

2016-12-19 18:40:47 | 詩吟関係
  今日はセンター関係の方が二人休みました。

 今日は新しい教材「壇ノ浦夜泊 」を最初にやりました。そのあと会員の稽古を聞いてもらいました。そこで丁度一時間かかったていました。

 10分ほど休憩をして後半。梶尾・口岩の両名が初吟会で発表する吟を、全員に稽古をしてもらうことにして、まず梶尾君の「富嶽」の稽古をした後続けてみんなに「富嶽」を吟じさせました。同じように口岩さんの「芳野懐古」もやりました。それで予定時間を終了です。

 来週は前半の稽古だけで稽古を終わり、後半は納め会にするとになりました。

 福祉センターの工事休業五か月の三か月が終わります。一月、二月、あっという間に過ぎて行くのでしょう。三月の春めいてくる中での再開は会員の皆様にとって良いことでしょう。良い冬休みができたということです。私の教室もこの冬寂しくならないで終われました。有りがたかった。新年度四月からは手稲の教室を一本化しますので楽になるはずです。
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俺の昭和が遠くなる 10  お見合い結婚

2016-12-18 20:24:13 | 随想
  書かないつもりでいたのだけれど、ちょっと触れてみます。大学生のころ母親から27歳くらいに結婚するのが一番いいという話を聞いていた。それがどんな根拠があってのことかわからないけれど、頭の隅に残っていた。

 沼田高校に奉職して5年目の正月美瑛の実家に帰郷する前に月形高校から転勤してきていた鹿角校長先生から見合いをしなさいと勧められ、丁度いい時期かと思い勧めを受けて帰った。ところが両親からも見合いの話が用意されていた。見合いだからすぐ返事をすることもないし、断るのも簡単なので、沼田に帰る日にお会いして、写真をいただいて沼田に帰った。すると次の日、校長住宅に呼ばれて出かけたら、現在の家内が姉と一緒に来ていて、お見合いということになった。二人とも私にとっては異論がなかったのです。そうなると仕えている校長先生が中に立ってくれている現在の家内を選ぶこととなりました。美瑛の方には直ぐ写真を送り返してお詫びをしました。見合いの後半年くらいお付き合いしてみなさいと勧められ交際を始め、結局11月に結婚式を挙げたのだった。

 此の当時は仲人となってくれる方がいて、相応の年となると世話をしてくれるのが一般的でした。今は婚活といった集団見合いみたいなことがなされているが、昔のように仲人になってくれる人がない時代だと、私みたいな臆病なものは自分で見つけることができなく独身を通すことになるのかもしれない。

 ともかくいい時代に生きたおかげで、家庭を持ち、それなりの人生を送ることができた。結婚記念日すら忘れるような生活だけれど平穏に老いを迎えている昭和5年と7年生まれの二人です。 </font>
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俺の昭和が遠くなる  9  ガリ板からワープロそしてPC

2016-12-17 19:24:03 | 随想
  昭和28年、教員になった。直ぐ印刷が必要になった。当時は謄写版印刷でした。謄写版は随分長い間続いた。ガリ版でやっと書き上げられると思った頃に字を間違ってだめにして初めからやり直すそんなことをずいぶんやったものでした。謄写版とワープロの間に青焼きのコピーが入りましたが、これはあまり続かなかった。

 昭和53年に札幌に転勤になってきたがこの時もまだ謄写版だった。55年ころに最初のワープロが登場した。ディスプレーが2行ほどしか出ないものでしたが、すぐ買い入れて使いました。ワープロは、出始めてから毎年のように新機種が登場しました。私は公務分担でPTAをはじめとする関係諸団体係りで、特に当時全国高等学校PTA連絡協議会北海道支部の事務局校になって、その仕事もしなければならず、ワープロは本当に助かりました。

 また、私は詩吟を美唄にいる時から始め、札幌で現役の時から詩吟の教室を持ちましたので、その吟譜をつくるのにすごく役に立ってくれました。


 退職の年までに5台くらい購入した記憶があります。使えなくなって変えたのではなく、機能の良い新しいものがほしかっただけです。使える古い機種は詩吟のお弟子さんに差し上げました。

 私はあまり字が上手でないので、ガリ版はとても苦労しました。でも懐かしい思い出になっています。

 退職して間もなくPCの時代になりました。そのころワープロは富士通を使っていたので、PCも富士通にしました。FMVでした。ワープロがやれたから直ぐ使えると思ったら甘かった。全く新しい機能で、同じに近いのがキーボードくらいのものです。でも普通の文書の書き込みは一人でやれるようになりました。ただ途中、当時電気店で有料の講習をしていましたので30分の指導を受けました。

 ホームページ最初は娘に立ち上げてもらいました。あとから自分で二本立ち上げたのですが、結局最初のg「手稲は最高」だけをもう10数年継続してほとんど毎日書き込んでいます。途中、中古を二台購入しましたがすぐ駄目になり、困っていたら娘から今の機種を進呈していただき助かっています。
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手稲第二教場 詩吟    納め会

2016-12-16 19:35:14 | 詩吟関係
  年内最後の稽古日です。早めに終わらせ、簡単な納め会をするという計画になっていました。会員4名とセンター関係3名の7名でした。

 はじめに「平忠度」を全員に吟じてもらい、つづいて会員の教本の稽古、そのあと全員に一題好きな詩を選んでもらい納め吟にしました。それが終わって丁度1時間経過していました。後半の1時間を納め会に回しました。

 40分ほど用意されたお菓子などを食べながら雑談をして終わりました。

 平和教場が明日納め会の予定だったのですが、都合の悪い方が多く、出席が4名になっているということで教場も休みとなりました。あとは手稲第一教場が26日まであと2回稽古が残っています。

 今年も大詰めです。今年の冬はか雪が多そうです。夕べの雪も結構なものでした。ロードヒーティングを入れておきましたので、ブルトーザーで寄せられた雪の処理も何とか一人でできました。
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日露首脳会談   長門市で・・

2016-12-15 19:47:58 | 政治
  日露首脳会談が阿部首相の生地山口で開催されている。

 此処で話し合おうという発想は安倍さんのものでしょう。これはとても素晴らしい発想だったと思います。この会談の成果がどうなのかはわからないけれど、プーチン首相との信頼関係の醸成にはとても良かったと思う。

 この会談に、報道のすべてが北方領土返還への期待で埋められている。領土問題は大変な問題である事は誰ものわかることです。北方四島一括返還を求めるのは日本として当然のことだけれど日ロ共同宣言での二島返還を一時認めた経過がある。そして、四島の帰属問題を前面に出して、平和条約の締結を進めてこれなかった結果として、実行支配は強化され、現在に至っている。

 これまでの経過からして、二島返還もほとんど不可能の状態にあるというのが現実だと思う。そこで今できることは、ソ連との友関係を強化し、四島の帰属をソ連と認めながらの共同開発のような形しか取れないのじゃないだろうか。とにかく大変な問題で、日本にとって実効的な経済、開発関係の深化と四島問題にどうかかわれるかで、返還放棄しない形での良い案が出されればというところでしょう。早くに決着できる機会が何度かあったのを逃してきた。また日米安保を堅持し、クリミヤ問題での制裁に加わっている日本です。ソ連が今必要としているのは経済協力、シベリヤの開発、樺太、北方四島の開発ででしょう。あまり大きな期待は持てないと思う。
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健幸クラブ 詩吟

2016-12-14 20:23:22 | 詩吟関係
  今日も前回と同じく、早くに一度やった李白の詩を二題にやりました。「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」と「廬山の瀑布を望む」です。最初にやったときにも説明していますが「黄鶴楼」にまつわる話をしてあげました。廬山の瀑布では「長川を掛くる」と「前川に掛かる」の二つの読み方があることとどちらかがよいかを話してあげました。

 吟は最初の一階をコンタ゜クタ―の伴奏で、二回目は前奏だけで吟じてもらい。最後は男性2人の合吟、女性三人の合吟をやらすという形で進めました。

 休憩後「富嶽 乃木希典」を前半と同じ要領でやって終わりました。
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俺の昭和が遠くなる 8   ”焼きを入れる!”  入れられた経験

2016-12-13 19:08:45 | 随想
 昭和20年の4月、私は永山農業学校に入学し、寮に入った。寮一棟に6人部屋が4つあり、それに食堂がついている。一部屋に3年生2名、2年生2名、一年生2名の6名が定員でした。勿論寮監の先生の住まいがついています。

 昭和20年、丁度終戦の年です。入学した時はまだ戦時中です。戦時中ですので、規律は軍隊並みに厳しくて、2年生は仏さん、3年生は神様といわれました。一年生はあらゆる仕事をしなければなりません。掃除、上級生の布団の上げ下ろし、食事の手配、上級生に命じられたことは反抗を許されません。上級生には全部「さん」づけで呼ばなければなりません。帽子や服装に格好をつけることは許されません。

 入寮して三日目くらいに初めての”焼き入れ”がありました。3年生が部屋から出てゆき、しばらくすると2年生が食堂に集められました。何か嫌な予感がしていました。間もなく一年生に食堂の前に集まれという知らせが入りました。一年生が食堂の前に集まって待っていると、食堂の中から怒鳴り声が聞こえ、ばし!ばし!という音か聞こえました。その後食堂に入れといわれて入ったらい列に並ばされました。そして、3年生の一人の方がすごい声で、「今、2年がどかんなことをされたかわかるか!たるんでいるので焼きを入れたのだ、焼きを入れるとはこういうことだ!}というなり一人づつ平手うちでビンタをはられたのです。そのうえで、これから心得て行かなければならないこと言われました。入寮して何か一つ偉くなったような気分でいたのがいっぺんに吹っ飛んで、命令に忠実に言葉遣いにも注意を払うようにしました。将に規律正しい生活をするようになりました。こんな状態の時、最初に家から手紙が届いたのですが、手紙を見ると泣けそうなのでトイレに入って読みました。

 私は、ビンタを食らったのはこの1回だけでしたが、仲間のほとんどは何回も呼び出されて殴られていました。

 これは、終戦後禁止されましたが、ほんの4か月くらいの間に軍隊式規律を教え込まれました。確かにつらいことでしたが、私自身とても良い経験だったと思っています。田舎で勝手気ままに過ごしていたものですから、此処で鍛えられ多くのことが身に着いたと思います。この寮生活がなかったらできなかったと思うようなことがあり、今の時代では許されないことだけれど、あの厳しい生活規律を身につけてくれたものとして、今の私は怨むより感謝しています。

 
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手稲第一教場 詩吟  

2016-12-12 18:56:10 | 詩吟関係
 先週は会場が取れなくて休みになり、2週間ぶりの教室です。

 朝、堤さんからメールが入って、体調は良いのだけれど,胃がムカムカして大きな声が出せない。今月いっぱい休みますという内容だった。胃癌小さかったとはいえ、手術したのです。胃に相応の傷が付いたはずです。胃だから外傷と違って治りにくいのかもしれない。とにかく、休養して早く回復してほしいものです。

 佐藤さんが歯で休み。センター関係では武岡さんが休みでした。

 稽古は初めにもう一度「青葉の笛」を全員に 独吟をしてもらい、次に梶尾さんと、口岩さんの教本の稽古をして前半を終わりました。

 後半、初吟会で吟じる梶尾さんの「富嶽」と口岩さんの「芳野懐古」をやってもらい、続けて福祉の方にそのどちらかを吟じてもらいました。

 次に「平忠度」をやりました。忠度の最後と、謡曲「忠度」の話をしてあげてから、吟を全員にやらせました。時間も丁度で終わりました。
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俺の昭和が遠くなる  7  昭和28年

2016-12-10 21:12:42 | 随想
 昭和28年4月、沼田高等学校に赴任した。学校のすぐ裏にぽろな寮がありその一室に同じ大学の同級生と相部屋で済むことになった。

 給料は6950円だった。赴任して間もなく、先輩先生から教えられた。金が足りなくなったら事務長に話しなさい。給料とかボーナ返済で借りることができるというのです。これはありがたかった。

 先輩たちは夜な夜な飲みに出かけるのです。終戦間もない時代でしたが、沼田には炭鉱もあり、かなり大きな料亭が二つあり、適当な飲み屋も結構あった。高校の先生はよいお客のようでした。また、ビリヤード屋さんがあって、私も1本(50点)で打つようになった頃閉店になってしまった。囲碁もここで覚えた。成沢先生と毎日楽しみ、毎年沼田で開催されていた北空知の囲碁大会などにも参加したものだった。

 だんだん慣れてくるとボーナスは殆ど借金払いに回ってしまうありさまだったけれど、学生時代にはできなかった遊びの世界があり青春を楽しんだ。同じ部屋に入っていた石川さんは全くお酒の付き合いをする人でなく、多分迷惑もかけたと思うけれども嫌な顔をすることもなく付き合ってくれた。

 先生としては褒められたことではないけれど、そんな勤務以外の楽しみがあり、沼田で務めた11年は年以上に長く感じている。本当に良い所だった。
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俺の昭和が遠くなる  6 貧乏だったが楽しかった

2016-12-08 19:43:25 | 随想
  10人兄弟だから戦後の我が家の生活は大変だった。両親がどんな苦労をしていたのか私にはよくわかりません。私の進学には大変苦労もしたのだろうと思います。

 ただ、終戦直後ですから買うものもなく、遊ぶところもないのですから、それほどお金に困ったという感じはありませんでした。大学に進学したころになるとかなり世の中が落ち着き、戦時中にはなかった娯楽が広まってきました。映画館は満員、パチンコ屋が出来、キャバレーができ、酒場もはやり始めました。又ダンスホールもにぎわっていて私もしばしば金子君に連れられて出かけた記憶があります。アルバイトもやりました。主に新旭川にあるパルプ工場でした。ほかに小学生の家庭教師などもやりました。愈々、お金に困って時計を質に入れたりすることもありました。

 そんな貧乏な私でしたから女性の友達を作ることは考えも及びませんでした。でも大学の三年のころからですか、金子君に連れてゆかれたスナックのような飲み屋さん、昼から店は開けているのです。そして私と同じくらいの女性の従業員がいて、親しくしてくれ、昼間暇なときはそこに行きレコード係りをしてあげておしゃべりをしたりした記憶があります。

 結局結婚も見合い結婚で、恋愛という経験もない青春でした。就職したころはよく飲みに出かけ、従業員と恋愛の真似事みたいなことはいくつかありましたがレはそれなりに楽しかった。でも結婚は見合いだったのです。正月にお見合いをして11月までお付き合いをして結婚したのでしたから、その間は恋愛をしていたといえばいえるのでしょう。借金をもっての結婚でしたが、少しの波風を立てながらもこの年まで二人の子供を育ててこの歳になっている。これは昭和という良い時代に現役時代があたからでしょう。やっぱり昭和は良い時代だった。
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