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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

俺の昭和が遠くなる  5  渓流釣り

2016-12-07 18:43:13 | 随想
  釣りを趣味にしている方は多いと思う。私の釣りはそんなに熱中する釣りではなかったが、私の人生の1ページにはなる。

 釣りというものを始めたのは小学校の3年くらいに、仲間と近くにあった小川でドジョウ釣りが出発です。ドジョウといっても私の住んでいたところでは、確かな名前は知りませんがたしか「仏ドジョウ」とか言われたように思う。今の土壌鍋になったりするドジョウはめっにいなくて、そのドジョウは内地ドジョウと言われていた。もちろん釣っても食べるわけではなく釣ることだけが楽しみだったのです。その後カジカ釣りをするようになりました。「かまくらみみず」といっていましたが、ミミズの太いやつです。これの中に糸を通して束ねた数珠というものを棒の先につけて、護岸の「じゃかご」の隙間に入れて、大きな口で食いつくのを引き上げるのです。近くの安足間川で小学生時代は遊びました。一度一緒に行っていた、お店の同級生太郎さんといっていた時、太郎さんがどうしたはずみか川に落ちたのです。「ジヤカゴ」は本流が岸にぶつかるところに作られていますから流れが急なのです。どうしてよいのかもわかりません。アッ!アッ!と思ったら10メートルくらい流されて向かいの浅瀬に立ち上がりました。そのあとどうしたのか記憶に定かでないけれど、本当に自分が助かったくらいに嬉しかった記憶が残っている。

 高等科に入ってからヤマメ釣りに入りました。少年時代を過ごした上川の東雲という処は、大きな川が石狩川と安足間川の二本あり、更にその支流があっての近くはヤマメと雨鱒がつれ、更に奥に行くと岩魚が釣れるのです。大学時代にヤマメを釣って旭川の闇市にもっていって、売ってもらったことがあります。

 最初赴任した沼田には雨竜川が流れていましたが、ウグイだけでヤマメはいません。それでもうわさを聞いて自転車で2時間くらい走るところまで釣りに出かけたものでした。

 美唄に転勤になってからは、仲間は海釣り方がほとんどで、そのお供もしたものですが、美唄では車も手に入れましたので、浜益の方まで釣りに出かけたものです。

 札幌に来てからもしばらくは、浜益が私の釣り場でしたが、ある時赤井川が紹介され、其れからは毎年赤井川に出かけていました。

 パークゴルフの仲間の大島君が俺はヤマメ釣りの名人だと豪語したので、一緒に行ってみようと誘って赤井川に連れて行き、釣り場の橋のところで、私は一寸上の方へ行ってくるから、この橋の下手で釣っていて、といって分かれ、40分ほどして戻ってきたら最初に別れたところにポツンといて、全く魚がいないといって憮然としている。そんなことないといって私のびくを見せる。私は40分ほどで30匹くらい釣っています。すぐ手前にここにだっているからといって目の前で釣って見せました。大島君とは3年くらい一緒しました。いつも私の一割くらいしか釣れないのです。その後、大島さんは一人で出かけ、支流の水田の用水路みたいなところで釣れることが分かり、そこの水田の主人とも仲良くなってよく出かけていたようです。

 最後、10年ほど前に弟と一緒に出かけたとき、笹藪をこがなければならないことがあり、それでなくても肺気腫が進んでいたのに、この無理がたたって右目の動脈梗塞を発症し、それ以来ヤマメ釣りもやめている。

 悪いこともした記憶がある。豊平川へのヤマメの放流の報道を聞き出かけて豊平橋の上手の水路にある水門の処に何人か釣り人がいたけれど、そこの仲間に入って私が釣ってしまったことがある。

 ヤマメのあのきれいな魚体は山女という言葉にびっりだ。まだ釣り竿を投げないでいるけれど、懐かしい昭和が目に浮かぶ。
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俺の昭和が遠くなる  4  昭和50年代の手稲

2016-12-06 20:53:10 | 随想
 昭和54年、開校3年目の札幌西陵高校へ転勤となった。一学年10学級のマンモス高校でした。前年、手稲に我が家を立てたばかりでしかも車で25分程度のところですからありがたかった。仕事は大変だったけれど、とても良い友達がすぐ出来た。学校のことを書こうとしているのではありません。学校を離れ、手稲での生活の一部を書いてみたい。

 手稲の我が家の周囲には数軒あるだけで、道路ももちろん舗装されていなく、しかも泥炭地ですから、砂利が敷かれてもどんどん沈んで行って何ともひどい有様だった。でも、2年目に舗装と下水工事がされて、一気に住みやすくなった。茶の間に座ったまま手稲山を眺めることができたのです。又、今のドリームビーチ元は大浜と呼ばれていましたが、車で10分とかからないで行けるのです。夏休み、進学講座などを終えて帰宅したら、直ぐ大浜に行って泳ぎ、車の運転席に、ビニールを敷いて水泳パンツそりのままで帰ってきたのしたものです。今は周囲に空地が無くなりました。来た当時は虫の鳴き声も聞けたのですが、今は聞けなくなりました。

 又、手稲の街はこじんまりしていますが、適当な飲み屋さんがたくさんあって、私は飲み歩くことの楽しさを知らなかったのですが、同じ手稲に住居を構えたF先生がなかなかの社交家で、楽しい飲み屋さんを見つけては誘ってくれるのです。ほかに私の初任校から一年前に西陵に来ていた酒豪のTさんが仲間になり、三人での飲み屋詣でが始まりました。初任地の沼田では独身時代良く成沢先生と二人で飲んだものでしたが、美唄の15年はまともに飲みに出たことはなかった。何かの二次会などで行くことはあったものの、飲んで楽しむことを忘れていた。

 それが、ほとんど毎週一度は飲みに出て、しかもはしご酒を楽しんだのです。私の現役は昭和で終わりました。楽しい思い出が山ほどあります。それが平成になってどんどん飲み屋さんが無くなり、最後「いの平」という居酒屋さんだけが残ったのですが、私の詩吟のお弟子さんだったり私のダンスの良いパートナーだった小野ママが亡くなって私の酒場がよいも終わった。

 
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俺の昭和が遠くなる 3 今の我が家を建てたころ

2016-12-05 19:47:30 | 随想
 美唄東高校に勤務していた時だった。美唄も12年になるので転勤を考えなくちゃならないと思い始めた 出来れば札幌にでたいという気持ちがあった。丁度、長女が大学進学を迎えているので、進学が決まれば冬一人で過ごさせてもよいと思い札幌に家を求めることにした。

 札幌に家を求めるのにどこが良いか特別の希望はなかったのだけれど、何となく手稲方面に気が向いていた。家内と暇を見てみて歩いた。新川方面から手稲と見て回った。丁度稲積に建売住宅が建ち始めていた。しかし、建売は狭くどうも気に入らなかった。

 実は現在の我が家の建てられている土地は、義兄が知人から勧められ購入することにしたのだけれど、半分40坪を私に投資の意味で買わないか進めてくれて購入していたのです。行き着いた結論はこの土地に家を建てさせてもらい、半分の地代は後に時価で買い取るという約束で義兄の承諾を取り建てることにしたのです。

 丁度この決心をしたとき、家内の出身地から工務店に勤務している大工さんがいることがわかり、その方に話したら大喜びで引き受けてくれました。私が設計して立ててもらいました。

 手持ちの資金は手付金ほどしかなく、住宅金融公庫の融資を受けての建築でした。返済計画を立てたら、一年に払う金額は、当時毎年ベースアップがあり、一年たてばベイスアップでまかなえ、残額は退職金から払えば済むというとても楽に建てることができました。

 一冬は娘が過ごしましたが、翌年に希望がかなって札幌へ転勤となり現在に至っています。兄との約束の土地代もそれほど高くならないうちに返済でき助かりました。

 我家を建てたときは土地は゛泥炭地でスコップ一つ掘れば水がわきだす有様でした。それが入った翌年に下水工事がされたら、泥炭地が水が抜けました。元が泥炭ですから乾いたら有機質の良い土地になりました。でも地盤沈下が20センチくらい起こったようでした。

 耐震建築法ができる前でしたからハスカイなども入っていないのですが、知り合いの大工さんでしたので材木はしっかりしたものがつかわれていて、今までの大地震などでもびくともしないで来ています。土台も普通の家の三倍くらい高く作りました。これも結果としてよかったようです。

 バブル期、本当にありがたい時に我が家を持つことができました。
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12月の定期審査会に会員を参加させてきました

2016-12-04 19:29:54 | 詩吟関係
  今日は東支部担当の定期審査会が教育文化会館でありました。6名の会員が受審しました。受審者の数が60名ほどでしたから早く終わるかと思っていたけれど、結構時間がかかって帰りついたのが16時少し前だった。

 受信した全員無事合格です。短縮合格は2段を受信した梶尾君一人でした。一番心配していたもM君本番に強いのですね。稽古でどうなるか心配していたのだけれどちゃんとそこそこの吟で合格してくれました。

 今回の審査に男性がかなり目立ちました。東支部には男性会員がかなりいらっしゃるのですね。

 次回審査会は3月、又私の会からは6人受審になると思います。

 来年も多忙になりそうです。早くも岩見沢神社の奉賛吟詠講の40周年記念大会の案内をいただきました。また、五十嵐先生の50周年もあると聞いています。

 平和に女性1名が増えることになりました。これはうれしいことです。手稲第二教場の平田さん連絡が取れない状態。内地の方の実家のお母さんの看病ということでしたが大変なのかもしれません。健幸クラブではKさんが入院中ですが、再起がむつかしいみたい。いろいろありますが間もなく新年、頑張らなくちゃ。
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俺の昭和がし遠くなる  美瑛の丘   2

2016-12-03 18:46:30 | 随想
 私の父は上川村字東雲の小学校校長でした。昭和12年に赴任して、太平洋戦争などもあり転勤がないまま15年ほど勤め、転勤になった二校目が美瑛町の二股小中学校でした。

 二股は美馬牛という駅から9キロ奥に入ったところにあり、今は美瑛の丘として観光の目玉になったりしていますが、当時は大変な僻地でした。私は当時学芸大学旭川分校の2年で、ここから夏の間は通学をしたのです。自転車をこいで美馬牛まで行くのですが、途中大曲(おおまがり)という坂があり自転車はおして上らなければなりません。帰りは楽ですが行く時は本当に大変でした。大曲から美馬牛までの間はいくつものなだらかな丘がづいていました。此の大曲を降りたところに続くが二股だったのです。

 20年ほど前に家内と義姉を連れてドライブをした時、上富良野から二股に抜けてみました。全く様変わりしているのに驚きました。上富良野方面の丘はきれいな花畑に変身していました。二股に入ると、私がいたころの様子と全く変わっていました。藪だった所もきれいになっていました。私がヤマメ釣りをした川は無くなっていました。

 に入ってみると人の気配を感じないのです。父の勤めた学校に寄りましたら今は廃校になっていて、それでも何かの記念館のようになっていました。学校の前にお店があったのもなくなっていたし、学校のそばには教員住宅もあったのですが、それもなくなっていて人の気配もありませんでした。ただ、校庭は整理されていて草畑みたいになっていないのは嬉しかった。

 このは水稲栽培が中心で、この時も水田は広がっていましたが人家は点在するだけでした。

 学生で青春真っ盛りで、の青年と一緒にいろいろな活動をしたことが思い出されます。お盆には校庭でにぎやかに盆踊りが催され、私もそんな輪の中で楽しんだのでした。楽しかった。 正月には何軒かの友達の家でカルタ取りに興じたことも懐かしく思い出される。お茶菓子なんてなくて、凍ったミカンを食べたりしたものでした。

 中の人が知り合いで、友達でとても仲良く、そんな点では今の時代よりづっと心豊かな暖かい時代だったと思います。いじめなんて言葉は全くかったのです。

 今更に、「俺の昭和は遠くなる」をしみじみ感じます。
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俺の昭和が遠くなる 1

2016-12-02 19:14:02 | 随想
  私は1930年(昭和5年)生まれです。平成も29年を迎えます。昭和はもう28年も前に終わっていることになります。最近演歌の中に昭和を懐かしむものが目立つようになっています。此の随想の題は新沼謙治さんの歌の題をそのまま使いました。

 今北海道の鉄道の半分は廃線しなければJR北海道はやって行けなくなるということです。

 私の鉄道の思い出は高校と大学の途中までの汽車通にあります。昭和20年に永山農業学校に入学して一年目は寮で暮らしましたが、2年目から汽車通をすることにしました。私の家は石北線の安足間と上川の間に位置する上川村字東雲という処でした。ただ、駅は安足間までだと2キロですが、上川は4キロになるので、隣村となる安足間からの通学でした。

 安足間を6時30分ころ発の汽車に乗り、新旭川で宗谷線に乗り換えて永山まで行くのです。夏は下駄をはいて、冬はボロ長靴を履いて、マントという外套を着用しての通学でした。

 この一番列車は通学列車みたいなもので、旭川中学(旭中)、工業(旭工)、商業(旭商)、そして私たちの永農、上級学校で旭川師範の本科生が相乗りとなります。それぞれ学校ごとに分かれて乗ります。旭中は小学6年からの進学、工業・商業・農業は実業学校で高等科2年を卒業しての進学です。自然とできている序列のようなものがありました。旭中に一目置くような意識があったように思います。女学生もいたはずなのですが、記憶に在りません。安足間からは旭川師範の方が二人通っていられ、私は時折話をさせていただいていました。そして、旭川師範への進学を望むようになっていったのでした。

 当然ですが蒸気機関車に引っ張られる汽車です。終戦直後で石炭が少なく、薪を焚いての運行もありました。寒い日には蒸気が上がらないといって、汽車が遅れることもありました。又冬わざと乗り越し、東雲で雪の中に飛び降りたりしたこともありました。

 高等科2年まで学んだ東雲小学校は廃校になっています。そして、石北線もそのうちに廃線となるのでしょうか。ますます昭和が遠くなります。

 
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健幸クラブ(老人クラブ)研修会に参加してきました

2016-12-01 19:49:22 | 身辺雑記
 私の町内会の老人クラブは,健幸クラブと称している。私の詩吟の会に健幸クラブがあります、これはこの老人クラブの中のサークルなので、そのような名称にしているのです。会費制になっていて、年会費1200円になっている。会員数は60名近いのですが、今日の研修会は25名の参加でした。

 老人クラブは市の助成対象になっていて、年間4回ほどの研修行事を組むことが条件のようです。そ一環としての研修会だったのです。

 内容は30分ほどのマジックと民謡二曲聞くものでした。此のマジックは今年の新年会でも余興にやっていただいたものです。初めは金山にある「おやじバンド」の演奏を聞くということだったのですが、バンドのメンバーが平日にはそろわないということで、急遽変更になったようでした。

 此のマジックをされた方、民謡を謳われた方は共に文化協会に所属している方で、私もよく知っている方でした。民謡カラオケで一曲唄っただけで終わりのようでしたがもう一曲という声があり、つけたしのようにもう一曲唄ってくれました。折角民謡を呼ぶのなら相応の呼び方があったと思う。研修が形だけ何かをやれはいいみたいな扱いになっているように思えた。

 研修が終わって懇親会です。2時間ほどビールをいただきながら、ビンゴゲームやカラオケなどを楽しんで終わりました。

 何かとても寂しい会でした。会員自体が高齢化していて、盛り上がれないのです。私もカラオケ一曲唄いましたが、歌わなければよかったという思いが強い。カラオケの機械は素晴らしいのだけれど、エコーが利きすぎていて歌いにくいのです。

 お酒も発泡酒のビールだけ。会場の温度も低くビールがおいしいと思える状況でなかった。このままでは先が思いやられます。
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