手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

一番多忙だったころは楽しかった・・・

2020-03-09 18:52:33 | 身辺雑記

 現役の時は毎日が仕事だから当然多忙なのだけれど、退職後は何年間かは、講師などがあって楽しみながら過ごすことができるのが普通だった。私も退職後4年間は新任教員指導員として3年、講師1年の4年継続してまだできたけれどやめて詩吟などに集中した。

 一番多忙だったときはも詩吟の教室が4つ、それに文化協会の事務局長、詩吟の支部総務部長も引き受け、おまけに週に一度はカラオケにも出掛けて、「村川さんは死ぬ暇もないね」といわれる時期があった。町内会では副会長を6期やらせていただいた。町内会長には随分勧められたが全部断った。
 私は会長という役は性格的にあっていないと思っていた。忙しいのは事務局長とか総務部長なのです。そんな仕事をすることの方が楽しかった。  

 詩吟の指導者として自分の教室(道場)三か所、40名ほどの生徒さん、それに老人福祉センター詩吟講座を開所以来昨年の末まで、39年ほど続け、また町内会の老人クラブの詩吟サークルの指導もできて、週五日間の詩吟指導をしたのでした。

 それが85歳を過ぎたあたりから一寸体にこたえるようになり、詩吟の会を整理して平和教場はお弟子さんにまかせ。手稲第一教場・手稲第二教場を一つにまとめました。そうしているうちに老人クラプのサークルが解散になり、いつの間にか詩吟の教室は二つ。役職も解放されて暇がどっとできた。暇になるとかえって疲れるような気がしていました。

 昨年12月肺炎で3週間入院となり、日常生活で酸素吸入などの世話にもならなければならなくなり、おまけに今コロナウイルスによる肺炎の大流行で、好きなカラオケにもゆけなくなり味気ない毎日になってしまった。私には暇が不似合みたい。

 3月から「トレリハ」・・・要支援1とか2とかの障碍者のリハビリーセンターに私も行くことになった。明日2回目です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しい仕事だった・・・団体事務局長

2020-03-07 19:59:24 | 身辺雑記

 札幌西陵高校赴任一年目で最初の校務分掌をこなしきれず、二年目に団体事務局長を命じられた。いわば左遷されたのです。しかし私にとってはうれしい左遷でした。
 団体はPTAと体育文化後援会と第一期生による同窓会の三団体の取りまとめが仕事ですが、PTAには学年PTAもあり、結構横の幅が広く、更に新校舎が西区平和の五天山の麓に完成し、それを機会に学校開放活動を立ち上げたいという校長の意向を受けて私の仕事になってきた。

 春秋の二回、一講座80分8回という形で先生方の協力をいただき盛大に開催することができました。これはPTA活動の一環としてPTAからの要請を受けて開催するものと位置付けていました。その活動を中心に高等学校PTA連合会(高P連)の大会での活動報告を当時PTA副会長だった石川淑子さんが発表して好評をいただき、翌年の鹿児島での全国高P連大会でも発表する機会をいただき、全国に札幌西陵の名を知られるようになったのでした。そして高P連奈良全国大会で優良PTAとして全国表彰を受けることができたのでした。

 PTAの活動として、毎年バスを使っての研修旅行と、校内生活指導研修会なども開催していました。私が担当している時に全道高P連事務局をやることになり、私ようやく出始めたワープロを購入して対応したのでした。
 
 書くことはきりがないくらいあるのですが、公開講座で「詩吟入門」を二回組んでもらい、その人たちで私のの詩吟の教室が立ち上がることになったのでして、私の退職後の人生を実りあるものにできたのもこの仕事のおかげでした。楽しいことがたくさんありました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自慢してもいいと思う・・

2020-03-05 19:40:41 | 身辺雑記

 手稲文化協会に加入したのは平成3年だった。詩吟の教室もようやく体裁を整えることができたので、手稲文化協会に加入した。
当時まだ手稲区が独立していなくて、西区手稲だった。この時新しく手稲コミニティセンターが開設され、それまで公民館で開催されていた文化祭もコミニティセンターで開催されることになりました。本格的な舞台のある会場での文化祭で手稲区の独立までは賑わいを見せていました。
 手稲区が独立しますと、区役所が出来、併設して手稲区民センターができました。手稲区が独立すると手稲の地区が細分化され、地区にはそれぞれ地区センターが開設されるようになった。そして、各地区ごとに地区センター祭りが開催されるようになりました。その流れの中で文化協会の文化祭はコミニテイセンタの文化祭と共催される形となったのです。この時、文化協会の事務局長はいましたが実質はコミニティセンター館長が仕切る状況だったのです。そして地理的にさかをのぼってな行かなければならないコミニティセンターでの文化祭にはお客がほとんど来なくなっていました。そんな状況は見ていましたが中身については判らないままでいました。文化祭には区長が来て甲斐かい挨拶をしますが、その時も文化協会文化祭といわず、コミセン文化祭といっていました。  そんな中、創立50周年記念を迎えることとなります。その前年に会計の役が回ってきました。初めて文化協会の執行部の姿を見ることになりました。50周年記念誌の編集を任され何とかやり遂げました。そして50周年が終わった翌年から事務局長を引き受けることになりました。会長もここで変わることになりました。二年ほど内部で仕事をしながら、文化協会が壊滅する危機感を強く感じました。そして私の頭の中は、文化祭の区民センター開催、新しい行事の立ち上げなどで一杯でした。
 文化協会の現状に危機感を持っている方は多かったと思いますが、どうしてよいのかわからなかったのでしょう。
 まず、手稲区長に文化協会の歴史を知ってもらい、存続発展させるために区民センターの使用料の減免を認めてもらう事が一番と考え、つてを使って区長に面会し、陳情して丁度有珠山の噴火災害のあった年でしたので、その災害義援金のチャリティ行事として「伝統芸能祭」を区の後援で開催することを認めていただきました。このチャリティ伝統芸能祭は大変好評でチャリティの収益は全額義援金に回しました。この実績をもとに翌年もチャリティ伝統芸能祭を開催することができ、5年目ころに行事の見直しをし、伝統芸能祭を舞踊の集いに改め、3月にカラオケフェスティバルをたちあげました。又,年忘れ演芸会も11月に開催するように改め、現在の文化協会の姿を作り上げたのでした。特につらかったのが、文化祭を区民センター゛開催するようになって3年目くらいに指定管理者制度が導入されることとなり、区民センターの使用量減免が受けられなくなるということが出てきました。当時の文化協会の財力では50年の歴史を持つ手稲文化祭も開催できなくなるということで,区とかなりきつい交渉を繰り返し、一年は指定管理者制度の施行を送らせることができました。そしてその次の年は、伝統芸能のチャリティ資金を使って将に文化協会独自の文化祭を開催したのでした。その後、地域振興課が中に入って手稲区民センター祭りと共催で費用は全額区民センター持ちということで決着し、現在に至っています。
 現状に疑問を持たない現執行部には言いたいこともある。文化協会としての自負心を持っているのかと疑いたい。こんなことをしていたら、昔コミセンでやっていたのと変わらなくなる。文化協会は今や独自でも資金を調達して文化祭を開催することができるのだということを心してほしい。文化祭はまさに文化協会加盟団体に依って開催されることを目指して進まなければならなのです。区民センタ―のお手伝いををしているのではないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自慢話にしてもいいのかな・・・

2020-03-04 19:50:02 | 身辺雑記


 詩吟で教室を立ち上げて以来34年にわたって交歓吟詠会を開催してきた。形はいろいろな変遷をしてきた。初めは同門の象堂流の方たちとの交歓を主に始めたのですが、10周年記念大会を契機に、私の教室、平和教場、手稲第一教場、手稲第二教場それに福祉センター吟講座会員の交歓に変えてきた。そして、本部から東先生、葛西先生が来賓として参加してくださり、二次会はスナック鷗でと盛り上がっていた。20周年の年、 象堂流を退会して現在の碌峭会を立ち上げ、北詩連に加盟させていただき活動することになりました。21回からは稲穂吟友会の五十嵐先生が門下の生徒さんたちも連れて参加してくださるようになりとても盛り上がるものになりました。来賓も北詩連の役員の方の多くに参会してもらい、二次会は大きなスナックを貸し切りで使わせてもらったりもしました。しかし、詩吟人口の激減の流れで会員数も減少更に老齢化も進み、34回で終止符を打つことにしました。丁度私も大きな病で入院、35回を開催する力をなくしてしまいました。振り返ると23年目くらいから岩見沢神宮講の皆様が参加くださるようになり、一寸異例な交歓吟詠大会だったと思います。交歓吟詠という名の吟詠大会です。一つの教室が主催して良く続けられたものと、自分でも感心しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悔いることは多い・・・つづき

2020-03-03 19:24:19 | 身辺雑記

 美唄東高校で15年務めた。そろそろ転勤しなくちゃと思い希望をだした。転勤ができるような話が伝わってきた前前年に札幌へ転勤ができなくても最後は札幌にすると考えて、手稲の現在地に私が勝手に大まかな設計をし、家内の故郷で知り合いだった大工の工務店に注文をして現在の住まいを建てた。   
 当時は現在の番地には五軒建つていましたが、泥炭地、スコップ一杯掘ると水ガ沸きだしてくるような土地でした。土台にコンクリトーのパイルを打たなければならないと思ったのですが大工が木は水に浸かっていると腐ることがないという、その言葉に乗っかってそのまま木の杭を打ってもらった。3年目に下水工事があり、道路や下水道がきれいに整備された。すると泥炭地の水が抜けて土地が乾燥した。水が抜けて、地盤沈下が起こり、杭の頭が腐り家が傾いてきた。それで10年目くらいに土台上げをしなければならなかった。
 
 家を建てているので、札幌に行けるといいのだがと思っていた。そのうちに札幌らしいといううわさが聞こえてきた。その時,新設の西陵高校じゃないかと予感した。新設3年目の一学年10クラスのマンモス高校です。まだ校舎は建築中で札幌北高校のグランドの隅にプレハブ建ての状態でした。   
 辞令は予想通り西陵高校でした。この転勤1年目がひどいひどい1年になりました。
 
 3月辞令が出てまず挨拶と思って出かけました。案内されて入った職員室で最初のショックを受けました。20学級60名以上の先生たちが座っている。その端の方のソフアへ案内された。職員室の中から話声が聞こえてこないのです。ストーブの周りに屯する先生もいないのです。こんな職員室の様子見たことがありません。
 更に応接してくれた教頭先生から、校務分掌は庶務部長ですと告げられた。すぐわかりましたがこれは教頭の次の役職なのです。30学級の新設校のリーダーになれというものなのです。いわば第二教頭なのです。そして、入学式の手筈から作らなければならなくなっているのです。悪いことに前任者は前年の行事等のファイルを一切作ってないのです。いろいろな書類の山の中からそれらしいものを見つけ出してそれをひな型に作って教頭に提出校長の許可をもらわなければならないのです。当時PCはない、印刷は全部ガリバンなのです。私は、ガリ版の使い方もあまり上手でなく、新任挨拶をする前から仕事に終われ、帰宅するのが22時過ぎになることが当たり前みたいな生活になりました。この1年は教員生活38年の中で一番つらい一年でした。1年で庶務部長は首になりました。このざまだから、教頭になれなかったのはラッキーだったのです。
 
 2年目に与えられた分掌が、団体事務局長ということで、PTA、後援会、同窓会の世話でした。この職は私に、はまりでした。以後、とても楽しく過ごすことができました。div>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悔い.ることは多い・・・ つづき

2020-03-01 20:02:08 | 身辺雑記


 これは本来悔いになるべきだが私にとっては良かったこと。高等学校に管理職登用試験が実施されるようになって間もなくのことでした。新しく森浦校長が着任してきた。九州男児で剣道の指導者で筆を執っても太刀打ちのできる人がいないくらいの方でした。最初に職員室で顔を合わせた時に、いきなり村川君だねといわれ驚いた。この校長先生に大変世話になった。当時、校長から教頭試験に推薦されて断った人で後から教頭になった人はあまりいないという話を聞いたことはあった。まさか私が推薦されることはないと思っていたから、この校長から今年の管理職試験に君を推薦するといわれ一晩考えて辞退させていただいた。そして、私より年下の方を推薦してあげてほしいと返事をしました。この時話を受けておけば私も曲りなりの教頭になったと思いますが、それが災いしてかのちにチャンスをいただきましたが駄目でした。そのおかげで詩吟に没頭することができ、退職後の人生がとても充実したものとなったのです。多くの仲間が管理職になりました。しかし、中には勤めきれずに退職して帰ってきた時には半病人となっていて間もなく亡くなられた方もいますし、管理職になられた方は比較的早く他界されています。それだけ精神的な苦労が多かったのでしょう。
 </div>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする