瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

不満足状態にシャープなサティを

2006年11月03日 | 断食・少食
◆『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え(Stillness Speaks)』エックハルト・トール(徳間書店、2006年)

「一つひとつの考えに、完全に注意が奪われてしまっているようなら、頭の声と『本当の自分』とを同一視している証拠です。そうすると思考は『個我』『偽の自己』にパワーを与えます。これがエゴ、あるいは自分でこしらえた『わたし』です。思考の産物であるエゴは、自分が不完全で不安定だと感じています。これこそ、恐れと欲望が、エゴにとって主な感情であり、活動の原動力である理由です。」p61

想念に埋没していて、それを客観視する視点を持たないまま、次々と想念が連鎖していく。これが日常のほとんどの想念・思考の実体だろう。想念を自覚化する視点がなければ、想念の連鎖によってますますエゴは強固になる。たとえば、対立する人物への批判と自己弁護という想念の連鎖を思い出せばよい。客観視されぬままの自己弁護によってますますエゴは膨れ上がるだろう。

一方でエゴ(という観念)は、自らの存在の根拠のなさをどこかで自覚しているから、自らを絶えず少しでも強化しようとする欲望と、その存在の不安定さから来る恐怖、そして満たされなさを持っている。

「満たされない自己」を満たそうとして、権力や名誉や金を求めるだろう。「満たされない自己」を少しでも紛らそうとして食べることに一時的な慰みを見出すこともあろう。

私の心理的欲求としての食欲も、明らかに「満たされない自己」を一時的に紛らそうとする代償行為である。

今日は、断食こそしなかったがある程度は食欲をコントロールできたと思う。しかし、間食は何回かしている。まだまだサティが甘い。

第一歩は、生理的には空腹でない状態を確認して、その状態をしっかりとサティすること。次は、それでいてなお食べたいのが、「満たされない自己」を紛らそうとする心理的欲求であることを感じとること。

その時の私が、どのように「満たされない自己」であるのかをごまかしなく感じ、その状態にシャープなサティを入れること。これは、また明日の課題だ。
コメント (2)
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