瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

瞑想のあとのサティ

2006年11月05日 | 瞑想日記
この三連休中、起床時に瞑想40分ほど。瞑想中は、もちろん想念が少なくなる。腹の動きや周囲の物音、イメージやかすかな思考にサティが入っていく。

大切なのは、瞑想が終わったあとだ。瞑想中に劣らないサティを、引き続く日常の行為のなかでどれだけ持続できるか。もちろん実際にはサティは粗くなるのだが、それでも瞑想中の感覚をできるだけ持続する。体の動きなどの中心対象にサティを持続し、そこからはずれる想念にも注意深くサティしていく。

やはり、あの浅い睡眠中と夢の中でサティを持続しようと意志し、起きても完璧なサティが続いていった日以来、モチベーションが高まっている。サティの質も少し変わった気がする。

そんなにむきになってサティをしようとしているわけではない。何かをしながら頭はあらぬ想念を追っているということがめっきり少なくなった。想念を追い始めた自分に気づき、その想念と「自我」との関係を自覚化し、そして行為に戻る。そんなことをゆったりした気持ちでやっていることが多くなった。

想念そのものに埋没する、想念に一体化している、無自覚的な思考、自分が今どんな思考をしているか客観視する視点がない、‥‥言い方はいろいろあろうが、そういう状態からどれだけ抜け出せるかに、大切なカギが隠されている。それは、「思考を本性とし、思考に埋没する自我」の視点からどれだけ自由になれるか、という問題でもある。

☆言葉の問題だが、思考という言葉は筋道立てて理論的に考えるという意味が強いので、上のような場合あまり使いたくない。しかし一方で想念にはない意味合いもある。思考するとは言えても、想念するとはいいづらい。つまり、思考という言葉には、その働き、運動性を表現できる面があるので、やはりこちらを使いたい場面も出てくる。
コメント
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