瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

夢も想念も根元は同じ

2006年11月18日 | 瞑想日記
朝、瞑想30分。思考は少し多かった。気がついたときには、想念の団子が4個も5個も連なっていた。最初の想念が何だったか、どうやって今の想念にたどり着いたのかとっさには思い出せない。結局思い出せないときもある。いくつかの想念が連鎖したのだという記憶だけが残る。

瞑想中でもこうなのだ。日常生活の中では、意識して思い出そうとしなければ、いや思いだそうとしても思い出せない無数の想念の連なりによって、心は動いていく。無自覚のうちに浮かんでは消えていくという意味では、日常の中の想念も、結局は夢と同じだ。私たちの日中の意識も、無意識に突き動かされて表層に浮かんでは消える想念の連鎖によって占領されている。

気持ちのよい朝の光のなかで洗濯物を干す。手の動作や、洗濯物に反射する光にサティし続ける。思考が出れば、そのつどサティをし続ける。それだけで充分に満足であった。

夕方30分ほど、サティをしながら荒川の土手を歩く。風呂に入っている間のサティは、今日は5割程度か。入浴中というは、リラックスしてぼけっとして気ままな想念に耽るのにもってこいだから、意外とサティは難しい。
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