以下は、井上希道著『座禅はこうするのだ』からの引用である。この本につては、11/14付けの日記ですでに紹介した。ヴィパッサナー瞑想にも通じるものがあり、自分の修行にとって大いに刺激となった。
「‥‥何時までたっても想念が想念を刺激して連続していく、取り留めのない観念現象」を破壊することが大切だという。そのために、「自分の意識する内容も感情も、一挙一動全体が見えなければ話にならない。‥‥だから、自分のしつつある行為にしろ感情にしろ、或いは想念にしろ、しているすべてを意識下に治めることである。ということは、自分が、今、しつつあるその事に徹底注意し尽くすことである。散漫・拡散と反対の精神行為とみればよい。」
私は学生のころ心理療法に引かれると同時に禅にも引かれた。その後ずっと関心は持ち続けているが、参禅の経験はほんのわずかしかない。禅は私にとって敷居が高すぎる。今でもそんな感じがある。
しかし、ヴィパッサナー瞑想なら自分でもできるという感じがあった。上の文章で言えば、「しているすべてを意識下に治める」などということを、ただ求められても途方にくれるだけだったろう。しかし、ヴィパッサナー瞑想には、サティ、ラベリングという方法がある。「今、しつつあるその事」を言葉で確認していく(ラベリング)ことで徹底注意し尽くす(サティ)という方法だからこそ、私にも一歩を踏み出すことが可能だったのだ。
「歩行においても同じ事で、意識が歩くのではない。トイレに行くために立てば、体も足も自ずから歩行をするようになっている。この時、歩行そのもの、一瞬一瞬前後する足そのもにに注意して、他の念・相・観といった心的作用を一切加えないことである。その歩行の事実だけを完全に意識下にて統理し、見守り切ることである。そのためには、速度を十分の一に落として凝視しなければ、心は何処かよそへ行ってしまう。‥‥猛然と一瞬一呼吸一足に、全自己を蕩尽するのが禅修行として一番よい。」
これはまさにヴィパッサナー瞑想でいう歩行瞑想である。しかし、ヴィパッサナー瞑想にはラベリングという手がかりがあり、想念が連鎖したときには、心随観という方法もある。禅よりもきめ細かい方法が容易されている。
ヴィパッサナー瞑想の道を歩んだからこそ、禅が目指すところも手が届かない感じはしなくなったのである。
「‥‥何時までたっても想念が想念を刺激して連続していく、取り留めのない観念現象」を破壊することが大切だという。そのために、「自分の意識する内容も感情も、一挙一動全体が見えなければ話にならない。‥‥だから、自分のしつつある行為にしろ感情にしろ、或いは想念にしろ、しているすべてを意識下に治めることである。ということは、自分が、今、しつつあるその事に徹底注意し尽くすことである。散漫・拡散と反対の精神行為とみればよい。」
私は学生のころ心理療法に引かれると同時に禅にも引かれた。その後ずっと関心は持ち続けているが、参禅の経験はほんのわずかしかない。禅は私にとって敷居が高すぎる。今でもそんな感じがある。
しかし、ヴィパッサナー瞑想なら自分でもできるという感じがあった。上の文章で言えば、「しているすべてを意識下に治める」などということを、ただ求められても途方にくれるだけだったろう。しかし、ヴィパッサナー瞑想には、サティ、ラベリングという方法がある。「今、しつつあるその事」を言葉で確認していく(ラベリング)ことで徹底注意し尽くす(サティ)という方法だからこそ、私にも一歩を踏み出すことが可能だったのだ。
「歩行においても同じ事で、意識が歩くのではない。トイレに行くために立てば、体も足も自ずから歩行をするようになっている。この時、歩行そのもの、一瞬一瞬前後する足そのもにに注意して、他の念・相・観といった心的作用を一切加えないことである。その歩行の事実だけを完全に意識下にて統理し、見守り切ることである。そのためには、速度を十分の一に落として凝視しなければ、心は何処かよそへ行ってしまう。‥‥猛然と一瞬一呼吸一足に、全自己を蕩尽するのが禅修行として一番よい。」
これはまさにヴィパッサナー瞑想でいう歩行瞑想である。しかし、ヴィパッサナー瞑想にはラベリングという手がかりがあり、想念が連鎖したときには、心随観という方法もある。禅よりもきめ細かい方法が容易されている。
ヴィパッサナー瞑想の道を歩んだからこそ、禅が目指すところも手が届かない感じはしなくなったのである。